東芝の西田厚聰(にしだ あつとし)元会長が12月8日、急性心筋梗塞で亡くなった。自らが社長、会長を務めた東芝から、粉飾決算の損害賠償を求められた裁判の渦中、73歳での早すぎる死だ。東芝は、西田が社長時代に買収を決断した米原発メーカー、ウエスチングハウス(WH)の巨額損失で瀕死の状態にある。

 今年3月、私が横浜市の自宅で取材した時に、西田は「WH買収の経営判断そのものは間違っていなかった。問題は買収後のマネジメントにある」と語り、自分が後任の社長に選んだ佐々木則夫の経営を批判した。

左から西田会長、田中副社長、佐々木社長(肩書きはいずれも当時) ©getty

 しかし2009年に佐々木に社長を譲った後も、西田は2014年まで会長の座にとどまり経営の一翼を担っている。2006年に東芝が買収した後も、ずっと暴走を続けていたWHをなぜ止められなかったのか。米ゼネラル・エレクトリック(GE)や独シーメンスなどが原発事業からフェードアウトし始めた、2011年3月の東京電力福島第一原子力発電所の事故以降も、ずるずると原発事業にのめり込んでいったのはなぜか。真相を語らぬまま、泉下の人となった。

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「東電の正妻」と呼ばれていた東芝では非主流の扱い

 早稲田大学の政治経済学部を卒業した後、西洋政治思想史を研究するため東京大学大学院に進み、学究の道を進むつもりだった。しかし国費留学で来日していたイラン人の女性と恋に落ち、彼女を追いかける形でイランに渡り、現地資本と東京芝浦電気の合弁会社で職を得た。手腕が認められ東芝の本社採用となったのは1975年、31歳の時である。

 発電タービンや原発などの重電事業を主軸とし「東電の正妻」と呼ばれた東芝では長く、「東大工学部卒、重電出身」が社長の条件になっていた。パソコンや情報システムといった新興事業出身の西田は、イラン現法からの「編入組」という経歴も加わって、長らく非主流の扱いを受けてきた。

浜松町の東芝本社ビル ©文藝春秋

 頭角を現したのは1992年、東芝アメリカ情報システム社の社長に就任し、不振が続いていた米国のパソコン事業を立て直してからである。米国で手柄を立て、本社の役員に凱旋した西田にインタビューしたことがある。

 通常、東芝の役員クラスにインタビューするときは39階の応接フロアに通されるが、このとき案内されたのは広報室の裏にある小さな会議室だった。広報部員に案内されて部屋に入ると、西田は悠然とタバコを燻らせていた。

 東芝本社ビルは原則禁煙で、喫煙できるのはスモーキング・ルームだけだった。広報部の会議室も本来は禁煙だが、西田はお構いなしで吸っていた。よく言えば豪放磊落、悪く言えば横暴な印象を受けた。頭の回転はめっぽう早く、弁舌は爽やか。少ししゃがれた声で自信満々に話すその姿は、往年の田中角栄を思わせた。