文藝春秋1965年4月号の表紙 ©文藝春秋

 戦後、財閥解体指定の適用を受け、解体の危機に瀕した松下電器。「世界のナショナル」への飛躍の前には、暗澹たる“日本一の借金王時代”があった――。

出典:文藝春秋 1965年4月号「わが日本一の借金王時代」

前編〈経営の神様・松下幸之助が綴った 世界の「ナショナル」への苦難の道〉の続きです。

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奇跡的に公職追放を免れた

 ところで、こうした内外各位の思わぬ陳情嘆願がつづけられているころ、もう一つ他に思わぬ出来事があった。

 それは──当時、進駐軍の経済復興局の担当官が、日本各地の工場を見てまわっていたが、ある日、私の会社にも視察にやってきたときのことであった。工場を見て、会社の状態や今までの経営の方針などをいろいろきいていたが、彼は、「設備その他はあえて立派とは言わないが、松下電器の経営の考え方というか、会社の根底を流れるその精神というものは、非常にすぐれたものがある」と大へんにほめてくれた。そして、多少のお世辞もあったろうが、「君の考えは立派だ、しっかりやりたまえ」と大いに激励してくれた。

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 そこで私は「お言葉はうれしいが、実は公職追放になったので、近く社長をやめねばならないのだ」と話すと、彼はおどろいて、「それは気の毒なことだ。何か抗弁する道はないのか。追放に関しては、自分には直接の権限はないが、君が立派な経営理念を持っていることや、非常に平和的な考えを持っているということは、担当の人によく進言しておこう」と言って帰っていったのであった。

 それはまことに好意的な態度であったが、発表以前ならともかく、一たん発表になってしまったからには、もう動かせまいと思っていたから、別に望みは持っていなかった。

 ところが、それから1カ月ほど経ったころ、突然、松下電器をAクラスからBクラスに変更するということが新聞に発表になった。当時、財閥指定を受け、公職追放のAクラスに指定されたものが、Bクラスに変更されるということは他に例がないことで、これは全く奇跡に近いことであった。

 果して労働組合や代理店の人たちの嘆願が効を奏したのか、今述べた進駐軍の視察官の進言が力あったのか、今もってわからないが、ともかくもBクラスになれば、審査の上、追放ということになる。

 そこで改めて審査を受けることになったが、その結果、追放する理由なし、ということで、私以下全重役はそのまま勤務してよしということになった。それは昭和22年5月のことである。

 このようにして、公職追放という一つの制約だけは解かれたが、財閥指定の方はまだ残っているし、他の5つの制限的解体的な法令からも全く解放されていない。従って、会社の生産活動も依然として思うにまかせない状態であった。

おどろくべきインフレの早さ

 一方、世間ではおどろくべき早さでインフレが進行し、政府も四苦八苦で、21年2月には新円に切り替えたが、それも大した効を奏さぬままに、生活はますます窮迫していった。

 食糧も22年7月には、ついに主食の遅配が平均20日、北海道では90日にもなって、ヤミをせずには生活できないようになってしまった。必然的に生活費がかさむ。

 このことは、松下電器で、21年半ばから23年半ばまでのわずか2年ほどの間に、賃金引上げが7回も行われ、基本賃金が7.5倍にハネ上ったのを見ても推測できるであろう。それでもなお、インフレの早さに追いつけなかったのである。

 従って、人件費も資材もドンドン上ってゆく。21年はじめに、物価統制令が出され、私どもの会社の製品にも公定価格が定められていたが、この公定価格の改訂よりも物の値上りの方が早い。資材はヤミ値でないと手に入らなかったから、こんな資材を使って、公定で製品を売っていたのでは、どうしても損になる。

 しかし、私は公定価格を厳守して、ヤミ値では絶対に売らぬことにした。これは正しいと思うからそうしたのではあるが、また一つには先にも述べたように、財閥指定などがあって解体の瀬戸際に立たされていたから、なお一層公定厳守の線を守っていたのである。