思いで多き社長の座を、辞すときがきた
かくして、再建に入った松下電器では、その後の5年間で生産は9倍近くに上昇し、従業員は1万1000人にまで増加した。
そしてここで私は、民間産業としては始めての5カ年計画というものを発表した。昭和31年初頭のことである。この計画は当時、社内でも夢のように思われた一面もあったが、結果はどうであったか。昭和35年には、生産販売は目標を大幅に上まわる1050億円、資本金は目標通り100億円、従業員は2万5000人に達したのであった。
この5カ年計画が無事に達成されたのを見て、私は私に課せられた生産人としての使命が一先ず果されたと感じた。そこで翌36年1月、私は思い出多き社長の職を辞し、会長に退くことを発表したのであった。
戦後20年、思えばわが国はよくもここまで復興し得たものである。当時のあの廃墟と化した国土に立って、誰が今日を予想することができたであろうか。私にもわからなかった。誰にもわからなかった。
ただしかしこれだけは言える。当時、青年であった人たち、壮年であった人たち、そして老年であった人たちすらも、男女を問わずすべての人たちが、片手で乏しい食糧を求めつつも、片手で懸命に働こうとした。そして懸命に働いてきた。人それぞれにずいぶん不自由なこともあったであろうが、日本人伝統の勤勉性は決して失われなかった。そこに大きな希望があった、ということだけは……。
自力で立つべき時
日本人の素質は、本来すぐれている。戦争という思わぬ過失を犯したが、その伝統的な素質は決して傷つけられていない。この素質の力が、今日の繁栄を生み出す一つの大きな要因になってきたと思うのである。
ただ、ここで注意すべきことがある。それは今までの復興繁栄の過程において、アメリカをはじめとして諸外国から、ずいぶん多くの援助を受けてきたということである。
食糧ももらったし、衣服ももらった。技術ももらったし、思想すらももらった。もらいっ放しのこの20年であった。その上に立っての今日の繁栄である。いわば他力の上に立った自力と言えよう。
しかしこれからはそうはいかぬ。経済界もすでに開放体制に入った。真に自力で立つべき時が来た。もらう時代から、こんどは与える時代に入ったのである。この自覚をここでしっかりと持たなければ、今までの20年は無に帰するであろう。
まつした・こうのすけ 明治27(1894)年和歌山県生まれ。丁稚奉公で苦労を重ね、自転車用電池ランプの成功で基礎を築く。戦後は家庭電器分野でテレビ、電気洗濯機、冷蔵庫などを世界の「ナショナル」ブランドに育て上げ、経営の神様といわれる。社員に社歌や社訓を斉唱させる経営はある意味で日本的経営の典型といわれた。50年以降の長者番付で10回全国1位を記録。松下政経塾を創設して人材育成にも務めた。平成元年没。