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「先生は勝ち負け以外の“伝説”もたくさん残されていますよね」ピアニスト藤田真央(25)が加藤一二三(83)に聞く“70年戦い続けられた理由”

2023/12/30
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対局前はバッハの『マタイ受難曲』

藤田 先生は現役時代、大事な対局の前はバッハを聴いていたんですよね。

加藤 バッハの『マタイ受難曲』が多かったですね。あのニーチェが感動した曲だと新聞で読み、聴くようになりました。バッハは、なんとかするぞ、がんばるぞという気持ちにさせてくれるんですね。モーツァルトを聴くと、ああ名曲だな、この曲のようにいい将棋をしたいなと思う。だから絶対に勝ちたい対局の前日だと、バッハのほうが向いているんです。

棋士として70周年を迎える加藤一二三さん

藤田 その2人の違いはわかるような気がします。もう一つ、先生にお伺いしたいのですが。先生は14歳から勝負の世界で生きてこられ、2024年には棋士として70周年をお迎えになります。ピアニストにもコンクールがあって、そこはどうしても勝ち負けがついてしまうんですが、先生が70年もの長い間、戦い続けることができたパワーはどこから生まれていたのですか?

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将棋を指していて疲れたことがない

加藤 なぜそこまで長く戦い続けられたかは自分でもわかりませんが、名人をのぞいたA級10名に36年在籍したという記録は、私の後には出てこないのではないでしょうか。私は、半年ほど不調が続いた30歳のときに洗礼を受け、パウロという洗礼名をいただきました。ご聖体のときには「世の中の人の役に立つ人間にしてください」と祈り、信仰が将棋人生の確かな支えとなったのです。

 もうひとつ言えるのは、引退した77歳のときまで、将棋を指していて疲れたことがないんですね。だからいつまででも考えていられる。

藤田 2日制のタイトル戦だと正座して将棋を指していただけなのに3~4キロ体重が落ちたという話を聞いたことがあります。それだけハードに頭脳を使うんだと思っていたんですが……。

藤田真央さん

加藤 そうですね、もちろん頭脳を使ってはいるんですが、私は対局中もよく食べていましたからね。それに私が疲れなかったのは、勝負以上に将棋を楽しんでいたからなのかもしれませんね。大山康晴、升田幸三、中原誠、米長邦雄、羽生善治、そして藤井聡太と、将棋の歴史に残る棋士たちと勝負をしてきました。バッハやモーツァルトの音楽が数百年後の人々の心を動かすように、名局は時が経っても色褪せないと思っているんです。