きょう2月10日は、昨年25年ぶりのセ・リーグ優勝を花道に広島東洋カープを引退した黒田博樹の42歳の誕生日である。

 1975年大阪府生まれ。父親の一博は南海ホークス(現・福岡ソフトバンクホークス)などで活躍した元プロ野球選手であり、母親は高校の体育教師で、東京オリンピックのときは砲丸投げの強化選手だったという。黒田が生まれて初めてキャッチボールした相手も、母だったとか。

©佐貫直哉/文藝春秋

 小学5年生のとき、父の指導する少年野球チーム「オール住之江」に入団。その後も野球を続け、上宮高校卒業前には地元・関西の大学、専修大学の卒業前には大阪の社会人チームからそれぞれ誘いを受けるも、いずれも断り、関東の大学からプロ入りという道を選んだ。学生時代は必ずしも目立つ選手ではなく、ときにはより上のレベルで野球を続けることをあきらめかけた黒田を、そのたびに後押ししたのは両親であった。

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 1996年に広島に入団し、やがてチームのエースとなった黒田は、2006年にFA権を取得したころより米メジャーリーグからも注目されるようになる。だが、02年に母を失ったのに続き、父も闘病していたこともあり、本人はメジャーに対しなかなか気持ちが向かわなかった。ロサンゼルスドジャースに移籍したのは、父が亡くなった翌年、08年のこと。これについて黒田は「両親を送り出したことで、寂しさの一方で、言い方は悪いかもしれないが、肩の荷が下りた部分は多少なりともあった」と書いている(黒田博樹『決めて断つ ぶれないために大切なこと』ワニ文庫)。ここでも彼は結果的に両親に後押しされたのである。その後12年からはニューヨークヤンキースで活躍、15年に広島に復帰した。

©佐貫直哉/文藝春秋

 なお、父・一博は現役時代、南海から新球団・高橋ユニオンズに移籍した1954年に118本安打を記録するなど活躍を見せた。ユニオンズ設立にあたっては、パ・リーグ各チームから若手選手を供出する約束であったが、実際にはピークをすぎた選手などがこれ幸いにと放出されたふしがあるという。そのなかで一博は数少ない「使える選手」であった(堀治喜『黒田博樹 男気の証明』オークラ出版)。

 日本のプロ野球では、成功した選手を父親に持つ二世はほとんど例がない。ましてや日米通算203勝をあげるほどの大選手にまで成長したケースは、黒田が初めてである。もっとも、彼の本当のすごさは、二世選手ということをまったく意識させないところにこそあるのだろうが。