いまから100年前のきょう、1917年4月11日、フランス出身の美術家マルセル・デュシャン(当時29歳)が、2年前より在住していた米ニューヨークからパリの妹宛てに手紙を送った。そこには、自分が理事を務める独立美術協会主催の展覧会が開かれ、大成功を収めたこと、また、その展覧会へ女友達が「リチャード・マット」という偽名で男性用便器を彫刻として出品したが、理事会は展示を拒否し、これを受けてデュシャンは理事を辞任したことが記されていた(フランシス・M・ナウマン、エクトール・オバルク編『マルセル・デュシャン書簡集』北山研二訳、白水社)。
独立美術協会の展覧会は、ニューヨーク市街の展示場で、4月10日より翌月6日にかけて開催されていた。これはアンデパンダンと呼ばれる無審査の展覧会で、協会に年会費と入会金さえ払えば、誰でも会員として作品を2点出展できた。デュシャンが手紙に「女友達が出展した」と書いた作品は、展覧会の一般公開の2日前に協会へ届けられた。それは、便器に「R.MUTT」のサインと「1917」と制作年を入れただけのもので、添付の封筒には、年会費と入会金の計6ドル、そして「泉(Fountain)」という作品名が収められていたという。
じつはリチャード・マット氏の正体は、デュシャンの女友達などではなく、デュシャン自身だった。しかし彼はその事実を、出展を“共謀”した数名の仲間をのぞき、ひた隠しにする。遠くパリにいる妹にまでわざわざウソをついたのだから、手が込んでいる。
当時のアメリカでは、便器という呼称さえ一般家庭用の新聞では使えなかった。それだけに独立美術協会内では、「泉」の展示について多くの理事から強い反対の声があがる。これに対しデュシャン寄りの理事らとのあいだで激しい議論が繰り広げられた。ようやく決着がついたのは、4月9日、展覧会の内輪でのオープニングの直前であった。このとき、理事10名により投票が行なわれ、僅差で出展拒否が決まる。
展覧会の開催を記念してデュシャンは仲間たちと小冊子を刊行、翌5月の第2号では、無署名の記事で「泉」がとりあげられ、「毎日の暮らしで使う平凡な道具をとりあげ、新しい題名と見かたを示し、役に立つものという意味あいが消えるようにしむけて、(中略)新しい考えかたを創りあげた」と解説されていた(カルヴィン・トムキンズ『マルセル・デュシャン』木下哲夫訳、みすず書房)。
なお、「泉」は展示拒否から1週間後、デュシャンの友人の画廊に運びこまれ、写真に撮られたあと、行方不明となる。それでもレプリカがいくつもつくられ、そのコンセプトは現在まで美術家たちを触発してきた。2004年、イギリスの美術専門家500人によるアンケートでは「もっとも強い影響力を持った20世紀のアート作品」として「泉」が選ばれている。