コーダの世界(1)より続く 

 2015年の文庫化以来、ひそかなロングセラーになっている『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文春文庫)の著者・丸山正樹さんと、同年に韓国で公開され、日本でも現在公開中のドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』のイギル・ボラ監督の対談第2回は、映画について。

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両親を描くことを通して、監督自身のことが語られている

丸山 自分の本の話ばかりしてしまったので(笑)、ボラさんの映画『きらめく拍手の音』の話をしましょう。

 時折挿入される手話によるナレーション。あれはボラさんの手ですよね。

ボラ はい、そうです。

丸山 それを主観で撮っていて、映像としてもきれいでしたし、何よりこの手法で、映画が徹底してボラさんの視点、娘でありコーダであるボラさんの目から描かれていることがはっきりと分かります。

 ボラさんが画面にほとんど映らないこと、「声」も聴こえないことも印象的でした。おそらくカメラの向こうから手話で語り掛けているのでしょう。それにご両親が手話で応える。「音声語」と「手話言語」(韓国ではこういうそうです)の両方を話せる人ならではだと思いました。

 映画の比較的初めの方に、ボラさんが小学生の時でしょうか、学校に提出した、親が書いた体裁の日記のようなものが出てきますね。その字はボラさんのものではないでしょうか。つまり、本来親が書くべきことをボラさん自身が書いた。ボラさんが、いかに子供の頃からしっかりしなければならなかったか、自分のことを客観視しなければならなかったか、ということがよく分かる。とても心に残りました。

イギル・ボラさん。ご自身はコーダである。

 映画の中でボラさん自身の「思い」は直接語られていないのに、ご両親を描くことを通して、それが伝わってくる。

ボラ そう言っていただけると嬉しいです。

丸山 ボラさんが、早くから海外に出たり、映画をつくったり、「今ここ」ではないところに向かいたい、という思いの源もなんとなく分かる気がしました。

 つまり、それがコーダが持つ、宿命というと大げさですが、幼いころから通訳をさせられたり、泣いても親には聞こえなかったり。強さ、たくましさを身につけるとともに、ある種の孤独感がある。愛情はたっぷりそそいでもらっていても、自分のいる場所が他にあるのではないかという思い。自分の感情の源流に何があるのか知りたい、という思い。それがドキュメンタリーづくりに向かわせたのではないか、と思いました。