中国市場を目指して西進する米国、西洋のルールに抵抗する中国、追いつく相手を見失ったとき我を忘れる日本……。
日本が再び「魔の時間帯」に入りつつある今、私たちは歴史から何を学ぶべきか?
日本開国 真のターゲット
半藤 今しきりとグローバルな視点、グローバルな思考と言われますが、たしかに日本の国内問題と思えるものが、実は世界の動きと直結していることがしばしばあります。しかし、それは何も今日に始まったことではない。日本一国で起きたと思っていたことの大元を辿ると、世界史の激動に端を発していることが少なくありません。
そこで今回は、国内外ともに激動の時代だった幕末から明治について考えていきたいと思います。これは今につながる日本近代の起点であるとともに、英米露などの西洋列強、そして中国や韓国との緊張関係の始まりでもありました。
船橋 まさにこの時期に、日本の歴史が自覚的な形で、世界史に直結するようになったわけですね。それを象徴するのが一八五三年の黒船来航でしょう。米東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーが四隻の艦隊を率いて、浦賀沖に停泊。開国を促す大統領からの国書を手渡しました。そして翌年、今度は九隻の大艦隊で江戸湾にやってきて、日米和親条約を結ぶ。これを機に、日本は近代的な国家関係――すなわちウェストファリア条約体制と自由貿易の世界に組み込まれていくのです。
渡辺 私はずっと日米関係の歴史を、アメリカ側の史料を中心に読み解いているのですが、『日本開国』(草思社)という本で、アーロン・パーマーという人物が書いた「日本開国計画書」を取り上げました。これはペリー来航の四年前(一八四九年)に当時の国務長官に提出されたものですが、これを読むと、アメリカにとって「黒船」とは何だったのかが非常によく分かります。
パーマーは日本ではまったく知られていませんが、ニューヨークで弁護士事務所を開き、政策提言をビジネスとするロビイストでした。パナマ運河計画の資金集めに奔走したこともあるパーマーは、日本開国について、ときの国務長官、海軍長官、そしてペリーとも頻繁に意見交換を行なっていたキーマンの一人だったのです。その意味でパーマーの「計画書」は、その後のアメリカ対日戦略の原型といっていいでしょう。
では、アメリカが日本に開国を迫った最大の目的は何だったか。それは中国市場でした。アヘン戦争が起きたのが一八四〇年。先行するイギリスに、出遅れたアメリカが対抗するために、パーマーは「太平洋ハイウェイ」の開発を提言します。つまり太平洋を横断して、中国に直接向かうルートを確立する。その航路を安全なものにするために、日本の港が必要だ、というのです。
出口 対中国貿易に大西洋航路を使う以上、アメリカは連合王国(イギリス)に勝てません。連合王国への船賃の分だけ貿易コストがかさんでしまうわけです。だから太平洋航路の確立は、中国進出を狙うアメリカにとって戦略的な課題でした。
半藤 この頃はまだパナマ運河もありませんから、アメリカ東海岸から太平洋に出るには、南米南端のホーン岬を回るしかなかったのですが、これが大変な難所だった。ここを回った船乗りをケープ・ホナーといって、一回でも回ると机の上に片足をあげて喋っていい、二回だと両足でもいい、というくらい名誉なことでした(笑)。
出口 だからペリーの艦隊も、まず大西洋を渡り、喜望峰回りで日本に来ています。太平洋を渡ったわけではなかった。
渡辺 そこで重要なのは、パーマーの「計画書」が提出された一八四九年という日付です。この前年に米墨戦争に勝ち、カリフォルニアがメキシコから割譲されると、大金鉱が発見されます。そのゴールドラッシュのおかげでサンフランシスコという太平洋に面した港町がたちまちのうちに開発されます。中国への海の道の起点が誕生したことになる。その後、アメリカは一八五五年にパナマ鉄道を開通させ(運河開通は一九一四年)、六三年には大陸横断鉄道に着工しています(一八六九年完成)。アメリカの東部から中国までを結ぶ「太平洋ハイウェイ」はこうして現実のものとなっていったのです。
半藤 蒸気船の発達も大きかったですね。「黒船」というと、鋼鉄製の蒸気船を思い浮かべますが、蒸気船は旗艦サスケハナ号、ミシシッピー号だけで、それも鉄を張り付けた木造船。あとの二隻は帆船でした。しかし太平洋を自在に行き来するためには、蒸気船でないと難しい。