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船橋 スペインは十六世紀から、帆船でマニラ(フィリピン)とアカプルコ(メキシコ)を結ぶガレオン船貿易を行なっていましたが、太平洋を渡るのに一、二年かかっていますね。

出口治明(でぐちはるあき)/1948年生まれ。京都大学法学部卒業。日本生命国際業務部長などを経て現職。著書に『仕事に効く教養としての「世界史」』『「働き方」の教科書』など。

出口 アメリカの狙いが中国市場にあったということがよく分かるのは、開港は求めても、日本との交易はほとんど重視していないんですね。

渡辺 そうです。その証拠に、通商条約締結を命じられたハリスは、何の後ろ盾もない状況で下田に二年間も放っておかれた。ペリーが下田と箱館の開港を認めさせた時点で、アメリカとしてはミッション完了だったからです。私は下田出身ですが、ハリスの孤独には同情します。

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半藤 そう、ハリスを下田に下ろしておいて、軍艦はそのままアメリカに帰ってしまう。あれは心細かったと思いますよ。

出口 そもそも当時の日本と貿易しようにも、売り買いするものがあまりないんですね。連合王国の経済学者、アンガス・マディソンがGDPの世界シェアを計算していますが(『経済統計で見る世界経済2000年史』)、それによると安土桃山時代から十七世紀までの日本は、GDPの世界シェアで五大強国のひとつになっていました。石見銀山などから採掘される銀が、世界市場の約三割を占めていたからです。ところが十七世紀には世界のGDPの約四%を占めていたのに、幕末には約二・三%に落ち込むのです。銀も金も掘り尽くして、売るものは、銅と海産物の俵物、生糸やお茶ぐらいしかなかった。

 いっぽう清のGDPは、アヘン戦争の直前でも全世界の約三割にのぼります。市場としての規模がまるで違う。

船橋 一八五八年の日米修好通商条約では、神奈川、長崎、新潟、兵庫の四港を開くことになりますが、あれも中国市場をターゲットとする構図のなかに日本の港を組み込んだに過ぎないと見るべきでしょうね。

渡辺 そう思います。アメリカが必要としたのは、燃料・食料などの補給もできる、いわば「太平洋ハイウェイ」のサービスエリアとしての日本の港だったのです。

「捕鯨」は世論向けPRだった

半藤 ペリーが開国を迫った主な理由として、しばしば捕鯨船の緊急避難やその修理のための寄港地、石炭など物資の補給が挙げられますね。私はかねがね、そんな捕鯨船のためという理由だけでわざわざ日本に開国を迫ったんだろうか、と半ば訝しく思っていたのですが(笑)。

渡辺惣樹(わたなべそうき)/ 1954年生まれ。東京大学経済学部卒業。著書に『日本開国』『日米衝突の根源1858-1908』『日米衝突の萌芽1898-1918』『朝鮮開国と日清戦争』など。

渡辺 実は、捕鯨がクローズアップされた背後には、パーマーたちの戦略があったのです。

 パーマーたちの計画は、日本を開国させるにあたり、東インド艦隊の軍艦半数近くを割くというものでした。しかし、それには軍部や世論の反対が強かった。虎の子の艦隊を、なぜ日本なんかに差し向ける必要があるのか、というわけです。そこでパーマーたちは世論に訴えかける作戦に出ます。日本沿岸で遭難した捕鯨船の船員が、「食うや食わずのまま長期間放って置かれた」とか、「踏み絵を強要されて、従わなければ皆ごろしにすると脅された」といった、日本人の残虐さを伝える記事をタイムズに掲載させます。そして、漂流民の保護と捕鯨船の緊急避難などを「計画書」にも盛り込んだのです。

 実際には徳川幕府は漂流民をかなり丁寧に扱っていた。老中の阿部正弘は「病気になった漂流民には薬を与えて治療せよ」と指示を出していますし、遭難者を長崎に移送することが決まっており、幕府はそこからオランダ船などで国外退去させていた。

船橋 それは面白い。米西戦争を煽り立てた新聞王ハーストや、真珠湾攻撃での米世論の沸騰を連想させるエピソードですね。これらは世論操作の例として挙げられることが多いけれど、別の見方をすれば、アメリカ政治がいかに世論を重視するかということにもなる。民主政治と外交政策の問題としても興味深いですね。