私、会いに行ってきます
私の中に芽生えた小さな変化を、まだ誰も知らない。いつものようにママ友と連れ立って行くファミレスを、私は初めて断った。「ごめんね、ちょっと家でやることがあって」。言葉にしてみたらたったこれだけのことなのに、どうして今まで言えなかったんだろう。別に嫌いなわけじゃない、だけどいつもいつも一緒じゃなくたっていい。「いないところで悪口を言われていたらどうしよう」と、そのことばかり気にしていたかつての私。倉本は群れない人だ。ベンチでもグラウンドでも、自分のペースで行動している倉本が眩しかった。「自分のことは自分で決めろ」そう言われている気がしたから。何か大きな力に守られているようで、むしろ誇らしい気持ちで私はママ友の群れから離れた。
倉本に会いたい。グラウンドで泥まみれになっているその姿が見たい。応援歌を、その名前を思いっきり叫びたい。その欲求はどんどん大きくなり、抑えきれなくなっていた。野球を観に行くなんて言ったら、夫はどんな顔するだろうか。
「別にいいけど、なんだよ突然」。案の定、びっくりしたような、ちょっと呆れたような口調で夫は言った。「お友達に誘われたの。たまには気分転換にって」「ショートが何かも知らないお前に?」。ドキッとした。ショートが何かどころか、私はそのショートを守る選手に会うために横浜スタジアムに行くのだから。「男か?」「まさか」「だよな、お前にそんなのいるわけないもんな」。この人ののんきな性格はたぶん一生そのままだろう。でも私は変わるの、変わりたいの。誰かほかの男性と観に行くほうが、まだ罪の意識は軽いかもしれない。私はひとりで行ってきます。初めての野球、初めての横浜スタジアム、初めての倉本寿彦。私の平凡な日常に、鮮やかな色彩と、むせるような香りと、甘い蜜をもたらしてくれたその人に、会いに行ってきます。
クローゼットの一番奥の引き出しに、静かに手をかける。「かっとばせ……見せろ男意気……」。躑躅色の刺繍を撫でながら、小さくつぶやく。もう戻れない、あの日の私には。
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