昭和平成を駆け抜けた偉大なコメディアンが亡くなりました。新型コロナウィルスによる志村けんの死は、多くの日本人にとって初めて亡くなった方の「顔」が見えた瞬間だったかもしれない。数字より明確に恐怖と現実を知らしめた、著名人の早すぎる死でした。

SNSは個々人が「小さなお葬式を」あげる場に

「悲しい」「もっとコント見たかった」「生き返って」……タイムラインを埋め尽くす、志村けんへの哀悼の言葉。ここまでの人気者であれば「送る会」などでファンにお別れの時間を設けるのが通常でしょうが、それすらも叶わず。せめて……と、SNSは個々人にとって「小さなお葬式」をあげる場所となりました。

亡くなった志村けんさん ©︎文藝春秋

「死」とは生きている人間のためにある概念なんだとつくづく思います。お葬式はその人がいなくなったことを残された人間たちが理解し受け入れるのに必要な儀式。誰かが亡くなった時、「死」はとっくに本人からは離れている。ドリフや志村けんが得意としていた「お葬式コント」はまさにこの概念をエンタメにしたもので、故人のために沈痛な表情をしなければならない、ふざけてはならない、笑ってはならないという「生きている人間」からの抑圧を笑いに変えていました。

ADVERTISEMENT

知事や市長の「感謝」に猛烈な批判

「死」の危うさとは、それを扱う「生きている人間」によって、いくらでも都合よく利用されてしまうこと。志村けんの死にかこつけた様々なツイートやコメントでそんなことを思い知らされます。

「エンターテイナーとして、楽しみや笑いを届けてくださったと感謝したい。コロナの危険性についてメッセージをみなさんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいと思っています」

(小池百合子東京都知事インタビューより)

 

「大変残念ですが、志村さんがコロナの恐ろしさを教えてくれました。『ありがとうございます』心より御冥福をお祈りします」

(松井一郎大阪市長ツイッターより)

 この二人の首長の発言はすぐさまネットで猛烈な批判を浴びました。人々が悲しんでいるのは大好きだった志村けんが亡くなってしまったことであり、「ありがとう」と言っているのは彼の生前の仕事に対してであり、決してコロナ云々ではない。誰かの死が「功績」や「感謝」などの耳触りのいい言葉によって簡単に政治利用の道具にされてしまう怖さ。まさに批判も当然……というわけですが、しかし我々一般人が「死の利用」を全くしていないかといえば、そうも言い切れない。「志村けんが死んだのは●●のせいだ!」みたいなトンチンカンヘイトはさておき、こういう時に決まって出てくるのが多種多様なデマです。その代表格ともいうべきなのが「いかりや長介が志村けんに送った最後の手紙」。