土俵に上がったら、シビアな評価を受け入れる
――「個人と社会の折り合い」というところに関連して1つ伺います。個人の努力で解決すべき事柄と社会が変わらないといけない事柄はどのように線引きしておられますか。
乙武 たとえば、就労や教育などは、制度を変えたり予算を付けることで、ある程度スタートラインをそろえられると思います。是正できる格差はしっかり是正すべきです。
ただ、能力主義までをも否定するつもりはありません。自分の得意分野で人と競争し健全な優劣をつけていくのはむしろ望むべきことです。障害者だからといって何か優劣をつけられることから排除されるというのは、ある意味「鬼ごっこでおミソ扱いにされる」ことに近いように思います。
――とはいえ、いくらスタートラインをそろえようとしても、障害によるハンデを乗り越えるのが難しいことも多いのでは。
乙武 もちろん障害があることで土俵に上がりにくい分野は非常に多いです。上がったところで健常者とどれだけ対等に勝負ができるのかといえば、やっぱりかなり大きなハンデがあると思います。障害者が優劣の「優」の側に回るチャンスは、現段階では確かに少ない。
だからといって「能力主義に傾いていくような存在は消えるべきだ」とか「障害者を能力主義の土壌に乗せていくべきではない」という方向に議論を進めるべきではありません。
まずは同じ土俵に上がれるようにする。ただし上がったうえは、障害があろうがなかろうが、他の方と同じようにシビアな評価を受ける。これが本当のノーマライゼーションでしょう。
恋愛については「障害を言い訳にするべきではない」
――個人と社会の境界線上にある例としては、恋愛について「障害を言い訳にするべきではない」という考えをお持ちですよね。
乙武 恋愛なんていうのは人の感情なので、それを法律とか制度で強制することは難しいと思うんです。「障害者は恋愛に不利なので、皆もっと障害者のことを恋愛対象として見ましょう」なんていう法律は作りようがないじゃないですか。そういった、現実的にスタートラインをそろえられないところに対して何か改善を求めることは、あまり意味がないと思っています。だったら個人の努力で変えられる部分を変えていくしかない。
私が大爆笑しつつもメチャメチャ納得したのが、『バリバラ』である脳性麻痺の青年が「彼女が欲しいけどモテない。どうしたらいいんだろう」と相談に来たときの回答。
これ、たぶん民放だったら、「一生懸命前向きに生きていれば誰かいい人と出会えるよ」みたいな気休めを言うんだと思うんだけど、『バリバラ』では「だっておめえ、ダッセえもん。お前そのファッションセンスと髪型何とかしろよ」と言うわけですよ。まさにその通りです。
障害があること自体はもう変えようがないじゃないですか。でも、ファッションセンスや髪型というのは変えていける部分ですよね。「その努力をまずしようよ」というのは僕も大賛成です。
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写真=杉山秀樹/文藝春秋