1ページ目から読む
4/4ページ目

 このあと2009年に菅は「派閥は古い体質の象徴と言われている」として宏池会(前年に谷垣派と再統合した古賀派=現・岸田派)を離脱する。そして2012年に安倍が首相に返り咲くと官房長官に就任、約8年間政権を支えたのち、無派閥のまま今年、総裁選を勝ち抜いて首相に登り詰めた。自民党で無派閥の議員が総理・総裁に選ばれたのは菅が事実上初めてとされる。

 菅はその後、「加藤の乱」について訊かれても、《加藤さんが途中で引いちゃったでしょ。私はふてくされてね》と多くを語っていない(※2)。対照的に岸田文雄は、昨年、菅の対抗馬として総裁選に立つ直前に上梓した著書『岸田ビジョン 分断から協調へ』(講談社)の最後の章で、かなり詳細に「加藤の乱」を振り返っている。

岸田は外務大臣を経て総裁選への出馬を果たした ©文藝春秋

 それによれば、岸田は衆院での内閣不信任案の採決を前に、同じく加藤派の若手議員だった石原伸晃の事務所に塩崎恭久、根本匠と集まったという。このとき、石原が「固めの盃」と称して、日本酒がなかったので自らシェイカーを振ってドライマティーニをつくり、グラスに注いだ。4人でそれを一息に飲み干すと、岸田は《もう良いも悪いもない。会長[加藤]がここまでの決意をされたなら、一緒に討ち死にしよう。除名でも、対抗馬でも何でもかかってこい》と自分でも珍しく大きな声を上げる。

ADVERTISEMENT

 じつは岸田は採決を直前にしてもまだ、このまま突き進むべきか悩んでいた。だが、ドライマティーニを飲み干すと、腹の底から力が湧いてくるように感じ、ようやく迷いを断つことができたという。ほかの3人も「生き残れたら、また乾杯だ」などと、勝どきを上げるかのような大声を響かせた。

敗北に終わった「加藤の乱」のその後は…

 結果は敗北に終わり、4人はそれぞれの道を歩むことになったが、その後も「ドライマティーニの会」と称して毎年、11月20日前後になると集まっている。「加藤の乱」から10年が経った2010年には、会のゲストに加藤紘一を招いた。このとき岸田は、あの日、もし加藤が山崎とともに議場に行き、不信任案に賛成していたのなら、どうなっていただろうかと訊くつもりでいたという。だが、加藤の顔を見てしまうと、もう何も訊けない、訊くべきではないと感じ、ついに訊けずじまいに終わった。

 加藤も何かを言いたそうだったし、おそらくほかの誰かが尋ねていれば、何かを説明してくれたはずだった。しかし、結局、彼らはドライマティーニを2杯ずつ飲んで、静かに散会する。そうつづったあとで、岸田はこんな一文で、この章を締めている。

《政治家として勝負をかけたときは、絶対に負け戦をしてはダメだ――その思いが、いまも私の胸に刻まれています》

今年の総裁選では岸田(左)と菅(中央)の争いとなった。来年は…? ©JMPA

 しかし、今年9月の自民党総裁選では菅が党内の主要各派の支持を得て勝ち、岸田の「負け戦」に終わった。菅は早くから「ポスト安倍」を見越して、各派に影響力を持つ幹事長の二階俊博と会合を重ねていたという。その勝利への執念に、岸田は一歩及ばなかったということか。

 それでも来年9月末には、菅が安倍から引き継いだ残り任期が切れ、再び総裁選が予想される。そのとき岸田がまた菅の対抗馬として立つとして、果たしてどんな戦い方を見せるのだろうか。

※1 山崎拓『YKK秘録』(講談社)
※2 松田賢弥『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』(講談社+α文庫)
※3 五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編『野中広務 権力の興亡』(朝日新聞社)
※4 森喜朗『私の履歴書 森喜朗回顧録』(日本経済新聞出版)
 このほか、田中秀征『自民党本流と保守本流 保守二党ふたたび』(講談社)、後藤謙次『ドキュメント 平成政治史 2 小泉劇場の時代』(岩波書店)、『NHKスペシャル 証言ドキュメント 永田町 権力の興亡 1993-2009』(NHK出版)、森功『総理の影 菅義偉の正体』(小学館)、清水真人『平成デモクラシー史』(ちくま新書)なども参照しました。