不安はあるが覚悟は決めるしかなかった
その日の晩から風が強まりはじめた。寝袋に入っていると時折、山のほうから突風が吹きおろし、家がぎしぎしと軋む。出発前の高揚と海氷崩壊の心配から眠るのはとても不可能だった。私は寝袋から出て、窓から外の様子をながめると、赤い街灯に照らされて、激しい地吹雪が吹き荒れていた。何ということだ。予報では風が強まるのは昼過ぎからとのことだったのに、すでに吹きまくっているではないか。もう我慢できなくなり、外に飛びだして海氷の様子を確かめてみた。氷は沖からのうねりで上下に揺れ、ギシーギシーと不気味な軋み音をたてている。山崎さんの家を訪ねると、彼は開口一番、「角ちゃん、今日は出ないほうがいいよ」と言った。
「海を見てきたけど、うねりで揺れてましたね」
「そりゃ絶対に海氷に乗らないほうがいい。古い氷でもまだ25センチぐらいしかないから」
午後になると少し風が弱まってきた。何度かネットの天気予報を確認したが、どうやら今日の夜から明日にかけては一時的に風が落ちつくらしい。だが、その後はやはり本格的な嵐となり、かなり強烈な風が吹くようだ。もしかしたらその嵐で海氷は崩壊するかもしれない。もし明日の朝起きて風もうねりも小さいようなら、その隙をねらって村を離れ、氷河の麓で嵐をやり過ごすしかないだろう。氷床からの風は吹きおろして勢いを増すため、氷河の下が一番危険だとされる。正直言ってそんな場所で停滞することに不安がないわけではなかったが、この4年間の目的であった極夜探検を実行するためには、それぐらいの覚悟は決めるしかなかった。
極夜のど真ん中にいよいよその時は来た
出発は12月6日となった。気温氷点下18度、天気は快晴、風は4、5メートルでかなり落ちついた。うねりもなく、氷は軋んでいない。もう今しかなかった。山崎さんのところに行き、今日出発することを告げ、慌ただしく準備をととのえ、家族に最後の電話をした。大島さんやヌカッピアングアなど出発までに世話になった村人のところにも挨拶に行き、すべてを終えると荷物を橇に積みあげ、腰を下ろして毛皮靴に滑り止めのチェーンスパイクをとりつけた。
まだ月は昇っていなかった。真昼にもかかわらず、ヘッドランプを点けないと足元が見えないぐらい暗かった。村はもうすっかり極夜のど真ん中に入っていた。
なんでこんな旅を思いついちゃったのか……
ディレクターの亀川さんに頼まれたのだろう、私が最後の準備をする横で、山崎さんがカメラを片手に持ちその様子を撮影していた。
「ついに出発の日が来たけど、どういう気持ち?」
「……怖いですよ。……4カ月もこの暗闇のなかを一人ですごすなんて。なんでこんな旅を思いついちゃったのかなって思いますね」
口をついて出た答えを反芻しながら、本当にその日というのはやって来るのだなと、私はそんなことを考えていた。われながら半ば信じられない思いだった。この4年間、私はつねに極夜を旅することだけを考えてきた。その間、一人の女と結婚し、子供が生まれ、家庭を持ち、別のテーマで本を書いたりもしたが、その日常的な時間の流れの中でも極夜の探検が意識から抜け落ちることはなかった。だが、心のどこかでそんな日は、自分の人生において最も重要な旅になるであろう、そんな決定的な出発の日は永遠に来ないものだとも思っていた。しかし、たしかにその瞬間は私の目の前にあるのだ。
犬が興奮して橇を引っ張ったまま先に村の坂道を下りていった。見送る村人に手を振って、私は犬の後を追いかけた。定着氷をしばらく歩いて後ろをふりかえると、すでに村の灯りは極夜の闇に沈んで見えなくなっていた。
『極夜行』
角幡唯介
定価: 本体1750円+税
発売日: 2018年02月09日