不倫のタイプによって罪の軽重があるという幻想
実は妻の側から見ると、二種類の不倫に対する憎むべきポイントというのは微妙に違う。純愛型の不倫は、「昼顔」の斎藤工がそうしようとしたように、妻の立場が揺らぐ可能性を孕む。つまり不倫相手は妻にとって脅威となるわけで、奪われる不安や自分の居場所がなくなる焦りによって苦しむのは当然だ。冒頭で述べたように、不倫の一般的な意味での拒絶反応も、この奪うものに対する恐れと嫌悪感からきているのは間違いない。
対して、「貧困型」の女子たちが妻の脅威となるかというとそれはあまり考えられない。そもそも妻の座を狙っていない場合が多いし、ただの金目当てや玄人系の場合、本命の恋人は別にちゃんといるという女の子だっている。女にその気がなければ流石に男性が妻との関係を断ち切ってまで乗り換えるということは考えにくい。
だからといって罪が軽いということにならないのは、何も人の傷というのは奪われる恐怖や居場所を失う絶望といった「昼顔」の妻的なものによってのみつけられるものではなく、別の形の、やはり堪え難いつけられ方というのがあるからだ。それは言わば自尊心が傷つくという苦しみ、バカにされていることの苛立ちである。自分が(少なくとも形上は)愛している旦那を、金づるとあざ笑って利用し、利用しておいて陰で「キモいオヤジ」だと蔑む女がいるとき、そしてそんなことにも気づかずつかのまの恋にうつつを抜かす自分の夫がいるとき、女性のプライドはとても揺さぶられる。それは自分自身がバカにされ見くびられているのと同等の、あるいはそれ以上の苦しみなのかもしれない。
おそらく妻自身もそれほどはっきりと区別して憎んでいるような類のものではないのかもしれないが、例えば「別にお前と別れるわけではない」だとか「ただの遊びのつもりだった」という言い訳が、あるいは「所詮、浮気相手だよ、あなたの座は揺らがないよ」という慰めが時に見当違いな響きしか持たないのは、傷のつき方にも形の違いがあるからだ。銀座ホステスが何も妻の座を奪おうとも彼らの関係を壊そうとも思っていなかったと考えたのであろう判決は、ホステス側から見て正しいものであっても、精神的苦痛を感じた妻の訴えと夫の罪をなきものとするに足る論理ではない。そう考えると「風俗は別物だよ」なんて言う男性の論理は、人の傷がどのようにしてできるかについて何の自覚もないという意味で、大変空虚なものに聞こえる。