伝説の「鼻ピアス事件」
今や光星といえば、東北きっての強豪校に君臨している。2011年夏、2012年春夏と3大会連続で甲子園準優勝と、確固たる実績もある。そのため有望な選手が集まりやすくなってきたが、かつてはヤンチャ気質の選手が集う学校だった。
光星学院ならぬ、「更生学院」と呼ばれた時代もある。坂本の在学中もそんな野球部員がいたようで、あるOBはこんな証言をしてくれた。
「入学して集合初日は『ジャージで来い』と言われていたんですけど、1年生のなかにスウェットに金のネックレスをさげて、サングラスをかけているヤツがいました」
坂本本人にもそんな気質は眠っていた。高校1年冬の正月明け、かの有名な「鼻ピアス事件」が起きる。
年末に伊丹へ帰省した坂本は、鼻にピアスをつけた風貌で正月明けの練習に参加した。野球部をやめる覚悟だったのだろう。当時の金沢成奉監督(現・明秀学園日立監督)は坂本を再び伊丹に帰らせたうえで、坂本の父や地元の仲間に説得するよう声をかけたという。更生した坂本は光星に復帰するのだが、ここで野球をやめていれば右打者史上最年少の2000本安打達成もなかった。
だが、一度でも八戸の寒さを体感してしまうと、坂本が楽な道に流れたくなる思いも理解できる。実は八戸の降雪量は決して多くはない。敵は海風である。「吹かれる」というより「刺される」という表現がぴったりはまる。おそらく『北風と太陽』の旅人でも上着を八つ裂きにされるような、猟奇的な風である。
現在は立派な室内練習場が建つ光星だが、完成したのは2014年12月。つまり、坂本が在学した2004~2006年には室内練習場すらない環境だった。時には海岸の砂浜を走る過酷なトレーニングもあったという。猛練習が終われば、かじかむ手で自分のユニホームを洗濯しなければならない。「なんで俺、こんな北の流刑地で拷問を受けてるんだろう?」と思ってしまっても不思議ではない。
そんな日々を乗り越えられるのも、ともに寮生活を送る仲間の存在があってこそだ。光星にはさまざまな地域から選手が集まってくるが、坂本のいた時代は近畿圏5割、青森県内4割、関東&東海圏1割程度の配分だったという。文化も方言も価値観も違う人間が、過酷な体験を通していつしか“戦友”になる。「関西弁に東北なまりが混ざる」というのも、光星野球部あるあるだそうだ。
今年で巨人のキャプテンになって8年目。坂本は強い言動でチームを引っ張るタイプのリーダーではない。それぞれの個性やバックグラウンドを尊重し、そのうえで一丸となれればいいと考えているのではないか。もっと言えば、その原点になったのは光星で過ごした3年間だったのではないか。
高校を卒業してから15年あまり。坂本の母校への思いは揺らがない。仲井監督は「今でも甲子園に出るたびに、坂本からプレゼントが届くんです」とうれしそうに笑った。
ただのプリンスではない。巨大なハエにまとわりつかれながら、ミポリンの恐怖におびえながら、八戸の海風に震えながら、坂本勇人はプロへの階段をのぼってきた。華やかさの裏にあるたくましさの原点は、間違いなく青森にある。
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