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「重忠の軍勢は非常に少なかった(この表現からも、重忠クラスが本気になると300騎ほどを動かす、という推測ができる)謀反の企ては嘘に違いない。昔から重忠とは轡を並べて一緒に戦ってきましたから、この首を見ると涙を流さないわけにはいきません」

 言外に時政を非難する言葉です。時政はこの時も黙って席を立ったとされています。

 討伐軍の大将だった義時が「謀反の企ては嘘だった」と言うほどですから、御家人の間でも、重忠討伐は正しかったのか、時政の陰謀だったのでは、という見方は広まったはずです。

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 時政は自分の保身のため、またしても口封じの策を講じました。時政と計って畠山重忠を鎌倉におびき出した稲毛重成と榛谷重朝の兄弟を殺したのです。「こいつらが秩父党のナンバー1になろうとして重忠を陥れた」としたかったのでしょうが、時政の意図は誰の目にも明らかでした。

平賀朝雅を将軍に?

 重忠を討った2カ月後の元久2年閏7月19日、こんどは時政側に陰謀の容疑がかかります。

 牧の方が源実朝を将軍の座から引きずりおろして、娘婿の平賀朝雅を4代将軍にしようとしたというのです。平賀氏は源氏一族のトップですから、確かに将軍になることは可能です。

 鎌倉幕府には、国会議事堂や総理官邸にあたるものは存在しません。将軍が住むところがそのまま幕府でした。今でいえば、総理の私邸で閣議を行い法律を作っていたのです。この時点では実朝が暮らす時政の家が幕府でした。

 そこを義時の軍が襲撃します。時政の館にいた将軍・実朝を連れ出し、義時の館へ移してしまいました。これで勝負がつきました。翌日、義時は時政に代わって執権となりました。これが「牧氏の乱」と呼ばれる事件です。

 私は、これは間違いなく義時による策略だったと考えます。このタイミングであれば自分のところに権力が転がり込んでくると踏んだ義時が、時政が将軍位簒奪の陰謀を企んでいるとのデマを流し、勝負を仕掛けたのだと考えます。まさに父・時政のお株を奪う謀略によって、時政から「玉」(実朝)を取り上げることに成功したのです。時政の失脚と同時に多くの御家人が出家しています。つまり、この政変によって幕府内の勢力図は一変し、義時派が幕府の中枢を握ることとなったのです。

空白地帯になった武蔵国に送り込んだ人物

 その日のうちに、時政は出家し、さらに鎌倉を追放され、伊豆の所領に押し込められます。さすがの義時も親までは殺しませんでした。10年後の建保3(1215)年1月、時政は病没します。ちなみに牧の方も京都に追放されますが、藤原定家の『明月記』は、牧の方は京都でとても贅沢な暮らしをしていると記しています。女性のたくましさを象徴しているようで興味深いエピソードです。

 父・時政を失脚させた義時の次のターゲットは平賀朝雅でした。