2022年の大河ドラマの題材にも選ばれた鎌倉時代。初代将軍・源頼朝が没して以降の「鎌倉殿(鎌倉将軍)」は、彼の妻の一族である北条氏が実権を握るための「据えもの」として扱われていた。政権闘争の主役は故・頼朝の近侍を務めた13人の武士たちへと移っていったが、その中でも年若だった北条義時が次第に頭角を現すようになっていく。
頼朝の侍従として脇を固めていた義時は、どのようにして多くのライバルたちを蹴落とし、権勢の頂点に達したのか。東京大学史料編纂所教授を務める本郷和人氏の著書『北条氏の時代』(文藝春秋)より一部を抜粋し、歴史の流れをひもとく。(全2回の1回目/後編を読む)
◆◆◆
「重忠を討て」
1204(元久元)年11月に、京都にある平賀朝雅の館で宴会が開かれました。きっかけはわからないのですが、その席で、平賀朝雅と畠山重忠の嫡男・重保が喧嘩を始めたのです。当時の記録を見るとよくわかるのですが、とにかく鎌倉武士は喧嘩っ早い人たちです。ささいなきっかけですぐに乱闘騒ぎに発展するのです。朝雅と重保の一件は、周りが「まあまあ、二人とも熱くならずに」と収めたようで、大きな騒動にはなりませんでした。
ところが、朝雅の方は、重保への恨みを募らせていました。そして、機会を見つけて朝雅は義母の牧の方に「重保はとんでもない奴だ」と告げ口をしました。牧の方は娘婿からの訴えを聞いて激怒し、時政に訴えたのです。
時政にとっては願ってもないチャンスになりました。これを利用して畠山氏排除の陰謀を巡らせることにしたのです。
1205(元久2)年6月21日に、時政は義時と時房の息子二人を呼び出し、「謀反を起こそうとしている重忠を討つことにした」と告げたようです。『吾妻鏡』にはこの時の義時の言葉が残っています。
海岸線から鎌倉の中心部に北上しようとしたところで…
「重忠は頼朝公以来、ひたすら忠誠をつくしてきた。今どのような憤りがあって叛逆を企てるでしょうか」
義時が必死で父を止めようとしたため、時政は無言で席を立ったと書かれています。時政は、館に戻り牧の方に相談をしたのでしょう。牧の方の兄である大岡時親(生没年不詳)が、義時のもとを訪ねてきました。大岡は「あなたは、実の母でないから牧の方のいうことを聞かないのですか」と言い放ちました。これを聞いた義時はついに覚悟を決めます。
翌日、将軍実朝によって「謀反人追討の命令」が下りますが、おそらく時政の進言によるものでしょう。合戦があると聞いて、多くの御家人が、鎌倉に集まってきましたが、その中に畠山重保もいました。海岸線から鎌倉の中心部に北上しようとしたところで、三浦義村の手勢が重保たちを取り囲みます。