鎌倉の新たな支配者の誕生
義時は軍勢を率いて一気に館を囲みます。そして、勢いのまま実朝を連れ出し、自分の保護下に置きました。「玉」を取られた時政は、これでおしまいです。時政は、その日のうちに出家させられ、鎌倉から追放され本拠地の北条に追われました。義時も父親を殺すことは考えなかったようで、本拠地で監視下に置くことで済ませたようです。10年後、1215(建保3)年に復権することなく78歳の長寿を全うして時政は亡くなりました。
ちなみに愛妻の牧の方はいつの間にか京に戻っています。藤原定家の『明月記』には、非常に贅沢をしている人物として描かれていますので、それなりに楽しい後半生だったのでしょう。
一方で、義時は禍の芽を摘むべく、京都でも動きました。京都にいた平賀朝雅を後藤基清(?~1221)たちに討たせたのです。
北条氏は自分の勢力を拡大
平賀氏の失脚は、武蔵の勢力図を完全に塗り替えました。そもそも、武蔵は平賀氏が国司(武蔵守)を務め、畠山重忠らの秩父党が軍事力を持つ二重構造でした。それが、時政の陰謀で平賀氏に一本化され、さらに義時はその平賀氏を滅ぼしてしまった。そうなると、武蔵は有力な御家人のいない空白地帯になります。そこで義時は弟の時房を武蔵守に就けました。北条氏は自分の勢力を拡大したのです。
以後、北条氏は相模守と武蔵守を独占し続けます。特に執権体制が固まってからは、執権は相模守、連署(副執権)は武蔵守となり「両国司」と呼ばれるようになります。
こうして父の暴走を止め、鎌倉武士たちの「世論」を集めることに成功した義時は、南関東の最重要エリアをがっちり押さえ、鎌倉の新しい支配者となったのです。
【後編を読む】「命だけは助かるだろう」と思っていた貴族たちを次々と処刑…承久の乱を終えた北条義時が行った“過酷すぎる戦後処理”の実情