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友情と政治は別のもの

 逃げることを潔しとせず、重忠は兵力に勝る幕府軍に突撃を命じます。4時間にわたる激闘の末、重忠は見事な討ち死にを遂げることになりました。

 重忠の首は義時によって鎌倉にいる時政のもとに届けられました。義時は、「謀反の企ては嘘に違いない」と断言します。「昔から重忠とは轡を並べて一緒に戦ってきましたから、この首を見ると涙を流さないわけにはいきません」と『吾妻鏡』に記述がありますが、時政はこの時も黙って席を立ったとされています。

 しかし、「友情」と政治は別のものと考える冷徹さが義時にはありました。義時が権力を確立した1213(建暦3)年、畠山重忠の子で僧となっていた大夫阿闍梨重慶が日光のお寺で匿われていたことがわかりました。さらには謀反を企てているという情報ももたらされます。義時は、すぐに兵を動かして、有無を言わさず重慶の首を斬ってしまったのです。この子供に畠山家を継がせることもできたはずです。しかし、義時はためらいなく殺している。このことから、もう流れは変えられない、という冷徹な目を持った義時の姿が浮かびます。むろん、畠山領は皆で分配してしまったので、今更出てこられても困るというのも本心だったでしょう。

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 ここでの義時の立ち回りは複雑です。父の命令に従って畠山討伐には加わる。しかし、御家人たちの世論の反発を感じ取り、父を弾劾するが、畠山の一族は冷酷に潰してしまう。