その瞬間まで重保は自分が「謀反人」とされたことなど思いもよらなかったはずです。突然、襲いかかられた重保はあっさりと首を討たれてしまいました。
ここでぜひ覚えておいて欲しいのは、三浦一族の動きです。三浦氏は鎌倉のすぐ東隣にある三浦半島を根拠地とする御家人です。御家人のランクでいえば、先述のB で300騎以上の大軍を動員することが可能です。この一族を味方につけることで、素早く大軍が動員できるので、権力闘争で成功するための鍵になっていたのです。
重忠の最期
さてその頃、父親の畠山重忠は武蔵の菅屋館にいました。館跡とされる城郭は、現在も埼玉県の嵐山町で史跡として郭などがきれいに残っています。その重忠のもとに秩父党の稲毛重成(?~1205)と榛谷重朝(?~1205)の使者が急報を届けにきました。「謀反人の討伐をするので、すぐに鎌倉に集まれとのご命令だ」とでも告げたのでしょう。6月19日、重忠は150騎ほどの手勢を率いて鎌倉に向かいます。
22日、一路南下していた重忠は、今の横浜市にある二俣川で大軍を見つけます。重忠を待ち構えていた幕府の軍勢でした。
有力な御家人がずらりと居並ぶ姿に「どうやら、俺が謀反人にされたらしい」と重忠は気がついたことでしょう。重忠の家来は恐れをなしたのか、撤退を進言しました。しかし、重忠は、きっぱりと断ります。
「家を忘れ親を忘れるのが武将の本意である。だから重保が誅殺された後、本拠を顧みることはできない。去る正治の頃、(梶原)景時は一宮の館を撤退し、途中で殺されてしまった。しばしの命を惜しむようであり、またあらかじめ陰謀の企てがあったようにも思われた。(このように)推察されては面目がなかろう。まことに(景時の例は)後車の戒めとすべきである」
(『吾妻鏡』元久2年6月22日)