モラハラ夫から逃れるため、希は小さな息子をつれて、新しい街の小さなアパートに引っ越してきた。となりの赤い屋根の一軒家に住んでいる主婦・千夏は何かと親切で、ふたりは家族ぐるみで親しくなっていった。
やさしい夫とかわいい娘がいる隣家は一見すると「理想の家庭」そのもの。しかし希は次第に、千夏の厳しすぎる「しつけ」のあり方に違和感を覚えるようになる。そしてある夜、子どもが泣き叫ぶ声が聞こえてきて――。
『赤い隣人~小さな泣き声が聞こえる』(KADOKAWA)は、そんなシビアな隣人関係を描いたコミックエッセイ。手塚治虫文化賞短編賞を受賞した『消えたママ友』など数々の話題作を手がけてきた漫画家・野原広子さんの最新作だ。本書の編集を手がけた、「レタスクラブ」元編集長の松田紀子さん、コミックエッセイ編集部の佐藤杏子さんに話を聞いた。
「アレ?」と思った、ママ友の言動
「主婦向けの生活実用誌『レタスクラブ』での連載ということもあり、読者にとって『ママ友』はよかれ悪しかれ身近な存在だろう、と。そこを起点に野原さんと話し合ううちに、『自覚のない虐待』というキーワードが出てきました。子どもへの愛情から重すぎる負荷をかけてしまうケースは少なくありません。夜遅くまで勉強や習い事を強いる、スナック菓子を禁止する、公衆の面前で叱責するなど、本人にしてみれば『よかれと思って』だとしても、第三者の視点からは異常に見えることもありますよね」(佐藤さん)
問題がある「隣人」は、千夏だけではない。アパートの階下に住むおばあさんは行きすぎたお節介から他家のゴミ袋の中身を漁っては、その内情を案じている。ほかのママ友も噂話に余念がない。そして、主人公の希もまた、あるトラブルに直面している。それぞれの「善意」ゆえに人間関係がもつれあい、衝撃の結末へ。
「野原さんは人間の生々しい感情をサラッと描いてくるんです。本作の裏テーマは『善意が生む悲劇』で、その予兆となるエピソードが随所にちりばめられています。たとえば『かわいそうな子とかほっとけない』という千夏が、子育て関連の本を希にドサッと手渡す。シングルマザーへの見下しがにじむ言動に、希が『アレ?』と感じる場面には、読者から多くの反応が寄せられました」(松田さん)
他と一線を画す「イヤミス」の名手
野原広子さんはコミックエッセイブームの先駆者のひとりで、『妻が口をきいてくれません』など次々とヒットを飛ばしている。これほどまでに読者の心をとらえて放さないのはなぜなのか。デビューから伴走してきた編集者の松田紀子さんは、その人気の理由を以下のように分析する。
「野原さんが9年前に発表した『離婚してもいいですか?』は、コミックエッセイというジャンルの潮目を変えた作品です。従来はほのぼのしたタッチの物語が主流でしたが、本作は結婚生活をめぐる主婦の葛藤を細やかに描き、読者の好評を得ました。このヒットに追随しようと、夫婦や嫁姑の軋轢をテーマにした漫画が大量生産されるほどのインパクトがあったんです。
そんな流れもあり、類似のコミックエッセイは数あれど、野原さんが描く世界は一線を画しています。文学的ともいえるほど、人間のどろりとした感情を丁寧にすくいあげ、読者の眼前に突き付けてくる。イヤミスの名手が紡ぎ出す緻密なサスペンスを、『赤い隣人』でも堪能していただきたいです」