維新後もこうしたことから、勝は薩長が中心となった新政府に取り立てられ、伯爵の地位を得るのである。
一方、勝の女性遍歴は、相変わらずで放埒を極めていた。家に置いた女中や、手伝いに来た女性たちに次々と手を出す癖が抜けなかった。お糸、お米、おかね、おとよ……。生まれた子どもはすべて正妻であるお民が自分の子として引き取り、生みの母はそのまま女中として奉公を続けた。妻妾同居の生活である。お民の心中も複雑だったろうが、生みの母たちも辛い思いをしたのではないか。
「夫と一緒の墓には入りたくない」
勝は、「俺と関係した女が一緒に家で暮らしても波風が立たないのは女房が偉いから」などと吹聴していたが、そう言って機嫌を取れば、「波風が立たない」と甘く見ていたのだろうか。民の本心を、わかってはいなかった。
勝が75年の生涯を閉じるのは、明治32(1899)年。お民はその6年後に亡くなるが、死に際にある遺言を残す。
「夫と一緒の墓には入りたくない。小鹿の隣に埋葬してくれ」
小鹿はお民が産んだ男児で、勝にとっても、たった一人の跡取り息子だった。
親の期待を背負って小鹿はアメリカのラトガース大学に留学。さらにアナポリス(海軍兵学校)を卒業して帰国し、日本海軍に入った。勝夫妻にとっては、自慢の息子であったのだろう。ところが、明治25(1892)年に39歳の若さで両親よりも先に亡くなってしまう。
84歳で死去、息子の隣に埋葬されたが…
小鹿には男子はおらず、娘の伊代子しかいなかった。小鹿が亡くなったこともあり、勝は徳川慶喜の十男である精を婿養子に迎えて伊代子と結婚させる。「勝」姓を名乗るのは、正妻である民の直系のこの子孫だけで、民以外の女性たちが産んだ子どもには、「勝」を名乗らせなかった。これは勝の意志だったのか、民の意志だったのか。
長崎の現地妻であった梶玖磨が産んだ息子は、勝にとっては三男だったが、故に名は「梶梅太郎」である。後、この梅太郎はアメリカ人で明治政府のお雇い外国人として来日したウィリアム・ホイットニーの娘、クララと国際結婚をするが、勝の死去後、クララは夫を日本に残してアメリカに帰国する。
お民は明治38(1905)年に84歳の生涯を閉じたが、遺言どおり早世した息子の隣に埋葬された。だが、昭和28(1953)年、子孫の手により、夫の隣に移される。果たしてお民は、墓場の下でどう思っていることだろう。安らかに眠れているのだろうか。