第19第内閣総理大臣・原敬が東京駅で暗殺されたのは、大正10(1921)年のこと。波乱に満ちた政治家人生の陰には、家庭生活の苦労があった。
上司の勧めで結婚した最初の妻・貞子は13歳年下で、結婚当時14歳。成長するにつれて美貌が開花し、華やかな社交界を好むように。そして不倫の末に、情夫の子を宿してしまう。彼女との離婚後、原が後妻に迎えたのが、東京・烏森で芸者をしていた浅(あさ)だった。
ここではノンフィクション作家・石井妙子氏の新刊『近代おんな列伝』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介。原敬の死後、妻である浅は、夫の遺言を忠実に実行した。その中身とは――。(全2回の2回目/最初から読む)
◆◆◆
首相の原敬が東京駅で刺殺されたのは大正10(1921)年11月4日のことだった。
自宅には前々から脅迫文が度々送り付けられていたため、彼は日々、自分が暗殺されることを覚悟していたという。
実際に原を刺したのは、国士を気取る人間や右翼結社に属する者ではなく、国鉄大塚駅で日給の転轍手として働く一介の貧しい若者であった。利権政治への批判が強まる世論を見聞きしていて影響を受け、犯行に及んだものらしい。
実家が没落し、苦学生に
原は安政3(1856)年、岩手県の生まれ。生家は南部藩の家老格という家柄だったが、9歳の時に父が他界し、同じく南部藩の上級武士の娘であった母りつの手によって育てられる。
その後、戊辰戦争が起こり、幕府についた南部藩は辛酸をなめることになり、莫大な賠償金を新政府に請求されるが、この時、りつは他の藩士のように財産を隠匿することなく、家屋敷の大半を処分して藩に上納した。人に後ろ指を指されない生き方を、子どもたちに示したかったからだという。後に政治家となって「私利ではなく公利」と訴えた原の価値観には、この母からの影響があると言われる。
地元で漢学を修め天才児と言われた原は、上京して西洋の学問を学びたいと願うようになる。母はそれを知って生活を切り詰め学資を捻出したものの、十分な額ではなかった。
原は金に苦労しながら東京で、フランス語や数学を貪欲に学んだ。一時はフランス人宣教師の元に住み込み、時には布教活動に付き添い地方を回る生活も送った。
新聞記者を経て、外務省へ
その後、司法省法学校に入学。学費無料という点に惹かれてのことだった。しかし、もともと法律を学びたいと思っていたわけではなく、学校の厳しい校則にも反発を覚え、ついには放校処分に。その後は自由民権運動家として知られた中江兆民を師として、フランス語と欧米事情を学んだ。