1ページ目から読む
2/4ページ目

 原は東北出身者として地方の発展を強く願っていた。また、国防や外交にも関心があった。国家運営に関わりたいとの思いはあったが、南部藩という賊軍の出身。薩摩や長州を中心とした藩閥政治の時代に、活路は見い出せなかった。

 原はそこで郵便報知新聞に入社。新聞記者となる。国政そのものに関わるのではなく、筆を持ち国政に関与したのだった。

 その後、取材する機会があった井上馨外務卿に見込まれ、さらには薩摩藩出身で「鹿鳴館」の命名者としても知られた中井弘にも、目をかけられるようになる。

ADVERTISEMENT

 明治15(1882)年、井上と中井の推薦により、外務省へ入省。翌年には天津領事に任命される。

最初の妻・貞子との結婚

 するとこの時、「外交官は妻を伴い現地に赴任したほうがいい」と外務大臣の井上から言われ、中井弘の娘、貞子との結婚を勧められた。

 賊軍出身の原にとって、この結婚は薩長閨閥につながる大きなチャンスだった。当時、原には武家の娘で零落して吉原芸者となった恋人がいたが、この女性はけなげにも、「原の出世のために身を引く」と言って、別れたという。

 中井の娘との結婚を井上馨が原に強く勧めたと言われているが、その当時、世間でまことしやかに噂された話があった。

貞子の出生をめぐる噂

 井上の妻、武子はもとは中井の妻だった。ところが、中井が東京を留守にした際、井上と武子は恋仲に。東京に戻り事情を知った中井は怨むことなく、武子を井上に譲り、ふたりは結婚したのだ─―。

 今日までこの噂は根強く流布し、中には貞子の実父は井上、養父が中井だとの説もある。

 中井は武子と別れた後、再婚。貞子を得たのだが、なぜか貞子の実母は武子だ、という噂が付きまとい続けていたのだ。

 貞子の実父は井上なのか、中井なのか。いずれにしても、この2人から貞子を娶るようにと言われて、断ることなど立場上、原にはできなかったはずだ。

 その貞子は当時、まだ14歳。跡見女学校を中退して、13歳年長の原に嫁ぐことになり、しかも結婚と同時に中国の天津へ向かうことに。