原に偽り、隠れて産もうとしたものの、すべてが露呈し、ついに離婚へと至る。だが、原は別れた後も貞子が大正8(1919)年に50歳で逝去するまで、仕送りをし続けたといわれる。
貞子との離婚成立後の明治41(1908)年、原は浅を正式に妻とする。
浅は「自分のような無教養な者は」と入籍を拒んだというが、原と親族が説得し、承諾させたとも。この時、原は西園寺公望内閣の内務大臣という立場にあった。
総理になって3年、東京駅で刺されて死去
家には来客が多く、浅は家庭を切り盛りして原を支えた。大正7(1918)年には、ついに原は総理大臣に。東北出身者、逆賊の藩に生まれた者が、初めて総理の座に就いたのだ。爵位を持たない初の「平民宰相」でもあった。
原の政治的評価は現在も大きく分かれている。鉄道敷設を条件とした地方への利益誘導は、当時から利権政治と批判されがちであった。だが、彼には発展から取り残された地方、とりわけ東北地方に対する特別な思いがあったのだろう。また、皇太子の渡欧を全面的に支持し、皇室の在り様を近代化、西洋化させようとした点では、保守層との軋轢を生みもした。
総理になって3年、原は東京駅で刺されて志半ばで死去する。
原が妻に託した「遺言」
浅は一報を知らされ凶行の現場に駆けつけると、原の乱れた衣服を整え、「亡くなればもはや官邸には用のない人ですから」と述べて、遺体を官邸ではなく自宅に運ばせた。また、原からかねてより託されていた遺言をすぐに発表する。原は自分の死が政治的に利用されることを案じ、浅にあらかじめ遺書を託していたのだ。
一、死去にあたっての位階勲等の陞叙は辞去
一、東京では何らの式も営まず、遺骸はただちに盛岡に送ること
一、墓石の表面には姓名以外、戒名も位階勲等も記さぬこと
死にあたって勲章や爵位を与えられること、国葬とされることを、なんとしても原が避けようとしていたことが伝わってくる。浅は強い意志で、反対する声をはねのけ、夫の遺言を忠実に実行した。政友会主催の通夜を終えると遺体を盛岡に送り、葬式は原家の菩提寺である大慈寺で執り行い、埋葬する。
浅はこの翌年に風邪を引き、1週間ほど寝つくと、そのままあっけなくこの世を去った。原の遺言に従い「原敬墓」とだけ彫られた墓石の横に、同じ大きさ、同じ形をした新しい墓石が建てられ、そこには同じ書体でこう刻まれている。
「原浅墓」─―。
【著者プロフィール】石井妙子(いしい・たえこ) 1969年神奈川県茅ヶ崎市生まれ。白百合女子大学国文科卒業。同大学院修士課程修了。2021年、『女帝小池百合子』(文藝春秋)で第52回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『おそめ 伝説の銀座マダム』(新潮文庫)、『原節子の真実』(新潮社/第15回新潮ドキュメント賞受賞)、『日本の天井 時代を変えた「第一号」の女たち』(KADOKAWA)、『魂を撮ろう ユージン・スミスとアイリーンの水俣』(文藝春秋)など。