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幼子のような妻との暮らし

 道中は極寒の上、馬車に揺られ続ける過酷なもので、天津についてからも日本人は少なく、中国人の使用人に囲まれての生活。東京で贅沢に育てられ、まだ子どもといってもいい年齢であった貞子には、耐えられぬことが多かったのだろう。

 精神的に追い詰められると、貞子は大声で泣き叫んだ。そんな時は、原が幼子をあやすように、妻の貞子をおぶって庭を歩き、なだめていたという。

 ところが天津に続いてパリに赴任すると、夫婦の暮らしは一変する。成長した美貌の貞子は、社交界で持て囃され、華やかな生活を満喫した。

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 その後、日本に帰国。すると、生活は再び一変して、大使時代のような贅沢は望めなくなり、貞子は不満を抱いたとされる。また原には、貞子が岩手の母や親族を見下しているようにも思えて、次第に夫婦の心は離れていくのだった。原は離婚を切り出すが、貞子が承知せず、別居という形を取るようになる。

後妻・浅との出会い

 実はこの頃、原にはすでに、ある女性がいた。

 新橋駅近くの烏森で芸者をしていた浅である。浅は人目を引くような容姿ではなく、若くもなかった。だが、原とは同郷のよしみで気心が知れたのだろう。

原浅 ©原敬記念館

 浅は岩手の山間部に生まれ、貧しく育った。子どもの時から子守奉公に出され、その後、花柳界に流れたという女性で、文字は書けず読めなかった。

 外務大臣が陸奥宗光から大隈重信に代わると、大隈とそりの合わない原は明治30(1897)年9月に外務省を辞してメディア界に戻り、大阪毎日新聞社の社長となる。すると同年暮れ、別居中の貞子から「家に戻りたい」との申し出があった。しかし、原はすでに浅を落籍していた。

 悩んだ挙句、原は「母への孝養を尽くすこと」「掃除炊事は率先してやること」「化粧や身の回りは質素にし虚飾に走らぬこと」「夜中にみだりに外出しないこと」と21項目の「訓戒」を手渡し、さらに浅の存在を認めさせた上で家に迎える。だが、貞子の行状は改まらなかったといわれる。

『近代おんな列伝』(石井妙子 著)

貞子が妊娠、子供の父親は…

 原は明治33(1900)年9月、伊藤博文が立ち上げた政友会に参加。新聞社を去り政界入りを遂げると同年12月には、早くも逓信大臣に就任する。

 順調に政界での階段を上っていく中で明治39(1906)年、大きなもめ事が家庭内に起こった。貞子が妊娠したのだ。子どもの父親は原ではなく、情夫であった。