戊辰戦争で西郷隆盛を説得し、江戸城の無血開城を実現させた勝海舟。その功績の裏では、赤貧時代を支えた妻・民子がいながら、放埓な女性遍歴を重ねていた。
ここではノンフィクション作家・石井妙子氏の新刊『近代おんな列伝』(文藝春秋)を一部抜粋して紹介。民子が死に際に残した「遺言」の理由は?(全2回の1回目/続きを読む)
◆◆◆
勝海舟は、時代劇では常に二枚目の役どころ、江戸っ子の旗本として描かれる。だが、実際は代々の武士として生まれた人ではない。
勝の曽祖父にあたる銀蔵は越後(新潟県)の貧しい農家に生まれた盲人で、江戸に出て金貸し業を営んだ。幕府による一種の福祉政策として盲人に金貸し業が許可されており、銀蔵は大名への貸付などで財を成して30万両もの遺産を残した。末子の平蔵はその遺産で旗本の養子になったという。その頃、すでに風紀が乱れ、武士の身分が金で売買されるようになっていたのだ。
にわか武士となった平蔵は、さらに自分の息子である小吉を旗本の勝家に養子入りさせる。この小吉の長男が、勝麟太郎(勝海舟)である。
勝海舟を支えた妻・お民
武士という階級に強い憧れを抱いた農民がその身分を手にする。憧れがある分、彼らのほうが武士らしくあろうとする。だからこそ小吉も息子を剣術に励ませ、厳しく育てた。旗本であっても無役でわずかな収入しかなかったため、生活は貧しかったが、勝は剣術だけでなく、禅、蘭学を学び、佐久間象山のもとにも通った。何とか出世の機会を掴みたいと考えていたのだろう。
その後、兵法学と蘭学の私塾を開くが、生活は赤貧洗うが如きありさまで、天井板まで薪にし、雨露もしのげない悲惨なものであった。
そんな厳しい生活を支えたのが、妻のお民だった。
お民は、砥目屋という薪問屋兼質屋の娘として生まれたが、その後、深川で芸者をしていたといわれる(諸説ある)。
結婚した時、勝は23歳、お民は2歳年上だった。夫が自宅で翻訳をし、蘭学を教授する貧しい生活の中で、お民は生計をやりくりしながら、夢子、孝子、長男の小鹿を産み育てていく。