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 入ってきた側と構造は似ている。が、こちら側には高さ制限を示す道路標識は設置されていない。高さ制限が片側にしかないというのも変な話だ。

此ノ木隧道を抜けて反対側

 謎はさておき、出た先の道がどこへ通じているのか気になったので、そのまま進んでみた。次第に、未舗装の道が険しさを増す。道は左右に分岐していたが、どちらもすぐに藪と化し、車で進めなくなってしまった。どうやら、こちら側は行き止まりなので、片方にしか高さ制限の標識がなかったのだろう。

右も左も車で走行できる状態ではなかった

 ひとつの謎は解明できた。

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 しかし、これによって、ますます隧道の存在が謎となった。隧道というのは、通行がとても便利になる半面、造るには多くのお金や労力が必要となる。必然的に、それなりに交通量が見込める場所にしか造られない。何もない行き止まりの道。わざわざ隧道を掘らないだろう。謎は深まる……。

隧道が掘られた理由

 岐阜の自宅に帰って調べてみると、意外なところに情報があった。本メディアで、過去にこの隧道を取り上げていたのだ。要約すると、このようなことが書かれていた。

 資料は残っていないが、当時は隧道の先に多くの田畑があり、大八車(江戸時代から昭和初期に使われていた木製の人力荷車)が通れる道が地域住民にとって必要だった。そこで、あの場所に隧道を造ることになった。当時の土木工事の多くは県からの直営で行われていたため、地域住民が人夫として力を合わせ、昭和35年に隧道を完成させたと考えられる。

 当時の町会長の言葉として、このようにも書かれている。

「経年による風化で天井から土がぽろぽろ落ちてくる。それを防ぐために東屋状の木の庇を設置したんでしょう」

 先を越されて悔しい気もしたが、各所に取材を尽くされており、これでほぼ謎は解けたように思われた……。しかし、最後の一文に目が留まった。

「この集落にすべてをわかってる人はもういないし、正確な記録が残っていないだけにはっきりとしたことはいえませんが、そう考えています。」

 これは、まだ解明の余地があるのではないか?

 私は、翌年、再び現地を訪れた。

 すると、思いもよらぬ真相を知ることができた――。