意地悪にも思えるナレーションの「効果」
ところで。
私は常々、人物ドキュメンタリーの取材のキモは、「右手に花束、左手にナイフを」と考えている。被写体にリスペクトの気持ちを持って取材をさせてもらう「花束」は、当然必要なものだ。だが花束だけだと、その人をホメあげるだけの、ややもすると気持ちの悪い番組になってしまう。それは、被写体にとっても失礼だ。そこで「ナイフ」なのだ。ナイフの中身は様々だが、要は聞きにくいことをきちんと聞く、あるいは言いにくいことをきちんと言う、ということだ。それは被写体を貶めろという意味ではない。聞きにくいことを聞き、その時の反応や答えを番組の中に取り込むことによって、視聴者にその人物の人間性をより深く伝えることができると思うのだ。
質問ではなかったが、ナレーションでナイフを見せてくれたのが、「箏曲家 今野玲央」だ。裕福な家庭に育ち、東京藝大に在学中のお琴の奏者である今野さん。石飛篤史ディレクターは、そんな今野さんの実家を、ナレーションで「あきれるほどの豪邸」と表現した。あえて今野さんの“恵まれ感”を隠さず、むしろ強調することで、いわゆるハングリーボクサーの物語とは対極の世界を描こうとしたのだと思う。一見、意地悪にも思えるこの視点のお蔭で、恵まれた環境に育った若者が、その環境に甘んじることなく、芸術への飢餓感を克服していく物語となっていた。ただしその後の展開は、「お琴の師匠に怒られ」→「見違えるように成長する」という、やや「出来過ぎたエエ話」に番組が収斂してしまったのが、(事実とはいえ)少々物足りなかった。
「情熱大陸」の最大の敵とは?
4人のディレクターの皆さんには、現役のディレクターでもある(つもりの)私が偉そうにあれこれ書いたことをご容赦願いたい。私が今後「情熱大陸」のバッターボックスに立つ機会がもしあれば、自分の言葉が自分に返ってくるので、その時は覚悟を持って作りたい。
最後に、そうしたディレクターたちを束ねるのが毎日放送のプロデューサーだ。企画の選定と、仕上げ時のチェックによる番組クオリティの管理という、極めて重要な役割を果たす。大先輩の越智暁チーフプロデューサーのもとで、6代目プロデューサーに就任した中村卓也プロデューサーは、ディレクター経験も豊富な徹底した現場の人だ。若い感性で、20年を超えた「情熱大陸」に、まだこんな手があったか! と思わせてくれるような番組を送り出して欲しい。
「情熱大陸」の最大の敵は、「情熱大陸あるある」なのだから。