「いい酒場には〝気配〟がある」
芥川賞受賞小説家 羽田圭介さんによる、忘れられない酒場にまつわる書き下ろしエッセイをお届けします。
「開拓の足掛かりとなった良い店」
一七歳時に河出書房新社主催の文藝賞を受賞し小説家デビューした自分が、二十代前半から足を運んできた店がある。 同社の営業本部長だった方が年に一、二度、小説家や書店員、出版社社員など数人を招き仕事関係なしの会食を開いてくれたのだが、それでよく訪れていたのが神楽坂の「ちゃんこ黒潮」であった。
元力士の大将が切り盛りする店で、座敷席に皆で集まり、ねぎたっぷりの鰹のたたきから始まるコース料理の途中、太鼓等の和楽器によるパフォーマンスもはさんだ熱狂に酒も進み、大鍋のちゃんこを食した後に麺で締めるという、大変満足のゆく流れがあった。
三〇歳になる直前に、芥川賞を受賞した。そうすると金銭的に余裕も出てきて、人と会う際に自分が主体的に“良い店”を選ぶ必要性のある機会が増えた。 だが、貧乏作家時代が長かったので、良い店などほとんど知らない。そんな当時の自分にとって、ネット検索もせずぱっと頭に出てくる唯一といってもいい“良い店”が、「ちゃんこ黒潮」であった。
二人とか三人で訪れると、座敷ではなくカウンター席やテーブル席に通された。しかも、コースの終盤に出てくるちゃんこ鍋が、一人一鍋、小鍋で出てきた。座敷席で大鍋、のイメージしかなかったので、あの雰囲気が恋しくもあったが、しっぽりとした雰囲気はそれはそれで良かった。
刺身料理の繊細な味は、カウンターやテーブル席で静かに食したときのほうがより楽しめた。河豚料理のコースが、手頃な価格なのにそこらの河豚料理専門店より満足のゆくもので、やがて河豚の刺身や唐揚げなどが出てくるそのコースばかり頼むようになった。
夏の終わりの九月頃までは、河豚の刺身は外側が炙られた状態で出され、それにあわせてよくハイボールを頼んでいた。炙られないで出てくる冬の季節には、ウィスキーや日本酒が合った。
元営業本部長は嘱託での仕事もとっくに引退され、今では年賀状のやりとりくらいであまり会わないため、同店での集まりも久しく催されていなかった。しっぽりの雰囲気も良いが、またあの大鍋を囲んでの熱狂も久々に体感したいなと感じていたところ、四人くらいの会をセッティングする立場となった自分は、久々に「ちゃんこ黒潮」を予約しようとした。すると、数ヶ月前に閉業していたことがわかった。別れが突然過ぎて、今もまだうっすらと喪失感を覚えている。
三九歳になった今では、自分でも開拓してきたので色々な店を知ってはいる。 ただ、人と一緒に赴く良い店として自分の中で礎となっている「ちゃんこ黒潮」の代わりになる店とは、まだ出会えていない気がしている。人生のその時々で、良い店には行っておいたほうがいい。そのことを教えられた気がしている自分は、人と集まるとき、また別の良い店へちゃんと足を運ぼうと思っている。
羽田圭介 Keisuke Hada (小説家) 高校在学中、『黒冷水』で第40回文藝賞を受賞し、小説家デビュー。2015年、『スクラップ・アンド・ビルド』で第153回芥川賞を受賞。近著に『Phantom』『タブー・トラック』など。
illustration: tent
本作品はウイスキーカルチャーメディア「NORMEL TIMES」の企画「美酒百景」とのコラボレーションエッセイです。
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