「揉めごととなると、決まってその原因を作る」通算懲役22年8カ月の問題児だったバービー

 浜本からのゴーサインも最後まで出ず、その気満々でいたバービーには拍子抜けだったものの、危うく懲役に行かずに済んだのも確かだった。当時、そんなことは日常茶飯事で、向後一統でも揉めごととなると、決まってその原因を作るのはバービーであったという。通算懲役22年8カ月という数字が何よりそれを物語っているわけで、向後や浜本にすれば、そんな問題児が可愛くてならなかったようだ。

 だが、昭和31年3月6日、ヤクザ抗争史上に名高い浅草妙清寺事件で、同じ住吉一家の大日本興行・高橋輝男会長、同・桑原優幹部とともに相討つ形で銃弾に斃れ、向後は40年の波瀾の生涯を閉じている。次代の住吉一家を担うホープと目された2人の大物親分の死は衝撃的で、紛れもなく戦後の裏社会の歴史を大きく変える事件となった。

 向後平の若者で浜本政吉の舎弟だった金子バービーが、浜本の直系若衆に直るのは事件から20年近く経ってのことで、浜本兄弟会の合議によるものだった。

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 浜本兄弟会というのは、浜本と縁の濃い舎弟たちから成る親睦会で、当初のメンバーは西口茂男、牧野國泰、亀井利明、広川進、小西保、清水幸一、中久喜源重、田中義治、五十嵐隆治、林勇太郎、中村利宣、稲葉一利、福中久雄、石井義雄、武田憲雄の15人。

 錚々たる顔ぶれで、いずれも一家を成した親分衆ばかり、西口、牧野、石井に至っては、住吉会、松葉会、双愛会という関東の名門組織のトップにまで昇りつめた。

写真はイメージ ©アフロ

私が浜本政吉を本格的に知ったきっかけ

 この若かりし頃は“バカ政”、後年は“赤坂の天皇”の異名をとった関東伝説のヤクザ・浜本政吉を、私が本格的に知ったのはロス強制送還事件で金子を初めて取材したことによる。

 厳密に言えば、出会いはもっと早く、浜本政吉をモデルにした東映の「バカ政ホラ政トッパ政」を観たのが始まりだった。昭和51年10月、封切り時に高田馬場東映で観たのだが、当時の私は映画にモデルがあることやどんな人物なのかもほとんど意識していなかった。