ただ事ではない雰囲気の中、試合はまさかの展開に…
試合が進むにつれ、球場全体が何となくザワつき始める。ヤクルト先発の石井一久に対してベイはフォアボールでは出塁するものの、それをことごとくまずい走塁でつぶすばかりか、荒れ球に翻弄されまくってヒットが1本も出ないのだ。こっちの先発、戸叶尚も6回まではゼロで踏ん張ったけど、7回ついに池山隆寛に先制打、小早川毅彦に2ランを浴びてしまった。
「おい! せっかくの天王山でノーヒットノーランかよ。勘弁してくれよ!」。8回に入る頃には周りからヤジが飛び始めた。でも僕は怒る気にはなれなかった。7月と8月で33勝11敗。それはこのチームを応援していて初めて本気で強く、頼もしく思えた2か月間だったし、こんな大一番を見ることもできた。せっかくの天王山でノーノー? いいじゃない。そんなの滅多に見られないよ? モーリも「こうなったらノーノー見たいべ!」と言い出した。こいつと一緒に観に来て良かったと思った。
最後は波留敏夫が三振に倒れ、石井一久ノーヒットノーラン達成。完膚なきまでにやられたベイは翌日も負け(この日はあの「メガホン投げ入れ事件」が起こっている)、ペナントの行方は決してしまう。この年の最終成績、72勝63敗で2位。翌98年の歓喜はベイスターズファンの間で永遠に語り継がれるべきものだけど、97年夏の奇跡の追い上げ、そして9月2日の横浜スタジアムのただ事ではない雰囲気はそのプロローグと言っても過言じゃないだろう。
98年の夏に僕が就職して家にもろくに帰れない状況になり、モーリとはたまに電話で話す程度になってしまった。98年10月8日、あの日は夜中に「ベイやったべ、なあ、やったべー」と泣きながら電話がかかってきて、こっちもガバガバ酒を飲みながらとりとめもない会話を交わした。だけどモーリは身体の調子が少し悪いらしく、以前のように積極的に会おうとは言ってこない。こちらも忙しいのと遠慮があって何となく電話を控えていたところ、翌99年7月、同級生からモーリが亡くなったと連絡が入った。
なんだよ、あっけねーな。少し前はしょっちゅうガストでダベっていたのに大事なことは何も言ってくれなかったじゃんか。……でもモーリは、僕にも他の友達にも自分の辛い部分は見せたくなかったんじゃないか。特に僕とはベイスターズの話だけで何時間も楽しく語れる。それだけで良かったんじゃないか。そんなモーリと観た97年9月2日の試合は、25歳の若さで逝った友との大事な思い出でもある。
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