10歳の僕は大きな模造紙にマジックでひたすら人名を書きこんでいた。「監督・三原脩 エース・秋山登 一番・セカンド近藤昭仁 二番・ショート鈴木武――」。後ろでは扇風機がブォンブォン回っている。1984年8月、わが家でクーラーを付けていいのは昼間のみ、それも余程気温が上がった時だけと決められていた。
司書係のおじさんに教わった「聖地」
小4の夏休みから自由研究の宿題が出されるようになった。自然な流れで、その年から熱心に応援していた横浜大洋ホエールズを題材にしようと考えた。最初は手元にある84年版イヤーブックと、隔月刊の『ファンマガジン横浜大洋』数冊、5月頃から作り始めたホエールズ・スクラップブックを資料にと思っていたが、ヤクルトと最下位争いしている現状では、その魅力をクラス中に伝える材料に乏しすぎる。「そうだ、ホエールズの歴史を調べてみよう」バスで横須賀市立中央図書館へ向かった。
「あの、大洋ホエールズのことが書いてある本、ありますか?」。司書係のおじさんは蔵書リストに目を通してこう言った。「残念だけど大洋について詳しい本はこれぐらいしかないんだ。巨人なら他にもあるんだけど」目の前に出されたのは、1976年ベースボールマガジン社発行の『日本プロ野球40年史』。僕はその米袋ぐらいある重い本(アマゾン調べで3.4kg)をヨタヨタと閲覧机に運び、1ページずつ丹念にめくっていった。
大洋ホエールズは1950年に下関で結成されたこと、それから10年間Bクラスで、6年連続最下位のあと西鉄ライオンズから名監督・三原脩が来ていきなり日本一に輝いたこと。でもその翌年にはまた最下位になったこと。秋山登、稲川誠というすごいピッチャーがいて、今はベテランでその年1勝しかしていない平松政次がその昔シーズン25勝もしたこと。そしてチームが24年間優勝していないこと……。大まかなことはわかった。「でも、もう少し詳しい本はないかなあ」そう思いながらさっきのおじさんに本を返しに行った。
「少しは大洋のこと、わかったかい? もっと詳しい事を知りたければ後楽園球場のそばに野球体育博物館というのがあるから、その図書館に行ってみるといい。ここよりは詳しい本が見つかると思うよ」。野球体育博物館の図書館、そんなところがあるのか。横須賀から水道橋は遠いけど、京浜急行の都営浅草線直通に乗れば三田で1回乗り換えるだけで水道橋に着く。親に事情を話し、日を改めてその「聖地」へ向かうことにした。そこにはきっと見たこともない野球の、それもホエールズについての本があるのだろう。それと同時に、初めてひとりで東京に行けることにワクワクしていた。
野球体育博物館で目の当たりにした超ド級の資料
野球体育博物館(現・野球殿堂博物館)は後楽園球場の三塁側内野スタンド外側、今のラクーアの向かい側に建っていた。早速図書室に入り、係の人に先日と同じお願いをする。通常ならば「大洋のどんな本が見たいの?」と詳しく聞かれるところだが、子供相手だったからかお姉さんは何も聞かずに奥の書棚の方へ入っていった。やがて運ばれてきた資料の数々を目の当たりにして、僕は完全に舞い上がってしまった。
1964年発行の『ホエールズ15年史』、1974年から発行が始まった球団イヤーブック、大洋の記事が載った週刊ベースボール、『ファンマガジン横浜大洋』の1979年創刊号など、本当にここでしか見られない超ド級の資料が山のように積み重なっていたのだ。僕は時間を忘れてそのすべてにくまなく目を通し、たった1度の日本シリーズの詳細や初めて目の当たりにした奇抜な湘南カラーユニフォームの配色、イカしたジョン・シピンの長いヒゲ、川崎から横浜への移転経緯などをひたすらノートに書き写した(コピーという概念はなかった)。やがて閉館時間となり、名残惜しくすべての本を返却する時、お姉さんがメモを渡してくれた。そこには“『‘84横浜大洋ホエールズ』白帝社/秋山登監修”と記されている。これはいったい……?
「さっきあなたが調べていた事が、この本にも詳しく書いてあります。今年出た本なので大きい本屋なら買えると思いますよ」そう言って後楽園の近くにある旭屋書店水道橋店までの行き方のメモも渡してくれたのだ。「ありがとうございます!」歩いて5、6分の所にある旭屋書店でその本は簡単に見つかり、横須賀までの長い道中、再びその単行本を読み耽った。大洋ホエールズ小史、1960年日本シリーズ回顧、ホエールズを支えた男たちetc。僕の知りたいことはほとんどここに書かれていた。その本と博物館でとったノートをもとに、大洋ホエールズ年表や栄光の1960年メンバー、川崎時代からのユニフォーム変遷などを模造紙いっぱいに書き、2学期始めにクラスで発表した。みんなはオレンジと緑の湘南ユニフォームを「だっせえ~!」と笑ったけど、ウケたので満足だった。