福岡では「元ホークスの」という枕詞で大々的に報じられた。

 杉内俊哉の引退のニュースだ。'11年オフ、ホークス球団とのボタンの掛け違いが大騒動に発展し、FA権を行使して巨人に移籍してしまった。ホークスファンの失望の声、恨み節をどれだけ耳にしたことか。ただ、それはある意味、杉内が深く愛されていた証でもあった。かのサウスポーは間違いなくホークスのヒーローだった。彼のおかげでどれほどの感動を貰い、素晴らしい思いをさせてもらえただろうか。杉内自身もホークスへの恩義はずっと胸の中に抱いている。近々、福岡を訪れるという話も伝わっている。ありがとう。お疲れ様。本当に感謝の言葉しかない。

 また、今年は栃木ゴールデンブレーブスでプレーをした村田修一も現役にピリオドを打ち、ベイスターズの後藤武敏も今季限りでユニフォームを脱ぐ。

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 松坂世代が一人、また一人と現役を去っていく。

 総勢94名がプロ入りした世代だ。高卒に限らず様々なキャリアを経ているため、全員が同時期にユニフォームを着ていたわけではないが、大卒組が入団した'03年あたりがピークで同時に70名近くが在籍した時期があった。

 その1980年度(昭和55年度)生まれのプロ野球選手たちが結成したのが「昭和55年会」だ。

 高卒入団組が1年目オフの'99年12月に発足。当初は親睦を深めるための団体に過ぎなかったが、「昭和40年会」(古田敦也、池山隆寛、星野伸之ら)「昭和48年会」(中村紀洋、黒木知宏、小笠原道大ら)といった球界の先輩たちに倣い、徐々に野球教室やチャリティーイベントを全国各地で積極的に行うようになっていった。

 '03年オフから松坂大輔が先頭に立ち、3年間の任期を経た後は村田が会長職に就任したのだが、発足時の「55年会」初代会長をご存知だろうか。

 吉本亮。

 投は松坂、打は吉本。松坂世代最強バッターと言われた男だ。熊本・九州学院高校の主砲として'98年夏の甲子園に出場。初戦で平塚学園に敗れたが、吉本は当時史上12人目となる2打席連続本塁打を放ってみせた。そして高校通算66発の実績を引っ提げて、ドラフト1位でダイエーホークスに入団したのだった。

 若い時から堂々としていて、竹を割ったような性格。

 いわゆるアニキ肌で、引っ張るというよりはまとめ上げるのが上手な男。

 ホークスの「55年世代」である和田毅は「松坂世代を強いて他の呼び方をするなら『吉本世代』ですよ」と言い、同じく同級生の新垣渚(現球団職員)も「みんな納得すると思う。まとめ役は亮です。アイツの言うことはみんな聞くし、(松坂)大輔も同じことを言うと思う」と頷いたという。

“しくじり先生”になる覚悟で

 その吉本は、今――。

 昨年11月にホークス3軍打撃コーチに就任。指導者として再びユニフォームに袖を通した。そしてコーチ1年目のシーズンがまもなく終わろうとしている。

トスを上げる吉本コーチ

「僕自身、プロに入って誰よりも失敗してきました。失敗した数では負けない。だからこそ、若い選手たちの失敗の確率を減らしてあげられると思うんです」

 自身の現役生活は13年。長距離砲として期待されながら、ホークスに在籍した10シーズンで一度も本塁打を打てなかった。ヤクルトに移籍した最初の年、‘09年8月21日に神宮球場で巨人の豊田清から待望のプロ1号を放った。ただ、これが1軍で放った最初で最後の本塁打だった。

 決して弱音を吐かなかったし、落ち込む素振りすら見せたことはなかった。しかし、周りの期待と自身の置かれた現状のギャップに苦しんだのは誰の目にも明らかだった。打撃を崩し、迷い、苦しんだ。

 自身が経験したからこそ伝えられることがある。吉本コーチは“しくじり先生”になる覚悟で若鷹たちと向き合っている。

「3軍に居ると、たとえいいモノを持っている選手だとしても1軍、ましてや2軍とのレベルや環境の違いを感じるうちに自信を無くしてしまう選手も多いんです。自分の能力に気づかせてあげるのも役割の一つだと考えています。生き生きとした選手が多くいるチームにしたいんです」