「カープかつ」が舞い降りた
2004年10月30日、旧・広島市民球場で奥田民生がコンサートを行った。熱狂的なカープファンであるアーティストが、市街地にある広島市民球場でコンサートを行う。異例のチャレンジは3万2千人の観客はもちろん、広島全体を大いに沸かせた。
洲澤も、その一人だった。「凄いコンサートでした。球場はもちろん、外にも人がいて、広島に全国の人が集まってきたような感じでした。僕も、奥田さんが大好きで、いろんなことを感じさせてもらいました」。
イベント終了後、バス停へと歩きながら、洲澤は思いを馳せた。「奥田さんは奥田さんのやり方で広島やカープを全国に発信しておられる。僕も、僕のやり方で何かできないだろうか?」。
コンサートの感動は思索に切り替わり、洲澤は、自宅のある広島県呉市へのバスに乗り込んだ。広島市中心部から40分程度の乗車時間である。この間に、あの「カープかつ」のディテールまでもが洲澤の頭に降ってきた。
「僕の会社はカツを作っている。そうだ、カープかつを作って、土産物として売ろう。パッケージは赤。味は……概要は……」。
かくして、カープかつは40分間で舞い降りたのである。ただ、ベテラン営業マンである。ここからの動きはロジカルであった。翌日から、あらゆる土産物を研究した。「どうしたら売れるか考えました。当時、お土産で人気があったのが、500円~1000円のテレホンカードでした。なので、600円をターゲットにしました。それに、コンパクトに持ち運ぶため、パッケージはタテ長です。色は、赤です、目立ちます。あと、中は個包装にして職場などで配りやすくします。これは、もみじ饅頭を参考にしました」。
600円。ワンパッケージに詰め込める最大量が16枚。この16枚が、宣教師のように故郷を広げていくのである。
カープ球団の理解も得ながら洲澤のプロジェクトは進んだが、彼も会社員である。社内は賛成意見ばかりではなかった。「僕は命を懸けて売ります」。この一言で、洲澤は、カープかつを発売へと押し切った。
カープの絆が追い風を吹かせた
2005年2月、カープかつは発売となった。ただ、大きな障壁があった。これまで洲澤らが扱っていた商品のルートは「菓子やおつまみ」である。一方、今回は「土産物」なのだ。流通のルートが違う。
小売店や百貨店、駅の売り場に直接足を運んだ。営業マンでありながら、自分の手で商品の納入も行った。しかし、今のようなカープ人気の追い風も吹かない。商品の認知度も高くない。発売当初は苦戦が続いた。
洲澤は、飛び込みで中国放送(RCC)の玄関に向かった。受付相手に「カープかつ」を力説すると、ひとりのディレクターがやってきた。アポなしの洲澤の話を聞くと、即決。ディレクターは取材と放送を約束した。おおらかさの残る時代である。ディレクターは、県内のある球場を借り切り、洲澤が赤いパッケージを手に思いを語るロケを行った。
これが大反響を呼び、販路も認知度も一気に拡大した。聞けば、そのディレクターも熱狂的なカープファン。上司の決裁も経ずにロケを敢行したのである。
「これからも、ファン同士のつながりの中で、カープかつを活用して欲しいです。商品を通じて、カープファンをもっと広げたいです。広島をもっとPRしたいです」。
カープファンが、カープへの思いとカープの絆で育んだ「カープかつ」。「今も、ディレクターさんのいる西の方向へは足を向けて寝ないようにしています」。義理堅い洲澤に、伝え忘れたことがあった。前回の定期人事で、そのディレクターは「東」へと異動、栄転を果たしている。
しかし、西も東も関係ない、そんな各地のカープファンをつなぐのが「カープかつ」である。1パッケージ16枚の宣教師が、動きを取り戻しつつあるこの国で、カープの魂を広めていくのである。
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