荒木貴裕――寡黙な男がヒーローになった瞬間
高津臣吾監督に「今季ここまで、会心の采配はありますか?」と尋ねたところ、「自分の口からは言えないなぁ」と言いよどんだ。そこで、「じゃあ、僕がいくつか挙げてみますので、その場面について教えてください」と告げると、「わかりました」と言った。
――まず伺いたいのは、9月25日、代打・荒木貴裕選手のバスターの場面……。
ここまで口にすると、続きの言葉を待たずに高津監督がほほ笑んだ。
「やっぱり! 絶対にこの場面のことを尋ねると思いましたよ(笑)」
9月25日、神宮球場で行われた阪神タイガース16回戦。ナゴヤドームで3タテを食らったイヤなムードで臨んだこの試合、7回裏無死一塁の場面で代打起用されたのが荒木貴裕だった。得点は4対3と1点リード。どうしても追加点がほしい場面だった。
バントの構えのまま、荒木は初球を見逃す。能見篤史の投じた一球は低めに外れるボールとなった。サードの大山悠輔が前進守備を敷いてくる中で投じられた2球目。荒木はバントの構えから一転してヒッティングに切り替える。「三遊間にしっかり転がそう」と意識したという打球は、三遊間をはるかに飛び越えてレフトスタンドに突き刺さった。打った瞬間にそれとわかる完璧な今季第1号のツーランホームランだった。
この場面で「代打荒木」を決断したこと。さらに、バスターのサインを出したこと。この2点の理由から、「こんなに気持ちよく作戦が的中すると、監督冥利に尽きるのでは?」と思ったため、冒頭で紹介したやり取りとなったのだった。「荒木ならバスターが決まるだろう」という高津監督の目論見が見事に当たった瞬間だった。
この日は神宮球場の一塁側スタンドで観戦していた。荒木の打球がスタンドに飛び込んだ瞬間、僕は慌てて手元の双眼鏡でヒーローの姿を追う。スタンドからはその表情はうかがい知ることはできなかったけれど、淡々とベースランニングしている姿はカッコよかった。帰宅後、スポーツニュースでこの場面を確認する。やはり、荒木は静かに喜びを噛みしめているようだった。
僕の目の前に座っていた女性が「荒木貴裕」と書かれた応援タオルを手に持ったまま、感極まっていた姿が印象深い。
そして、ふと「あの日」のことを思い出す。2018年の春の日、僕は一度だけ荒木貴裕にインタビューしたことがあるのだ。
「結果だけがすべてではない」と荒木は言った
子どもの頃から、ずっと野球がうまかった――。プロ野球選手のほとんどが、そんなアマチュア時代を過ごしていたことだろう。多くのライバルたちとの熾烈な戦いを勝ち抜いて、選ばれし者だけがプロ野球チームのユニフォームに袖を通すことを許される。
アマチュア時代は「エースで四番」だった選手たちも、プロではさらに過酷な競争が待ち受けている。レギュラーになれるのはほんの一握りだ。しかし、レギュラー争いに敗れたからといって、それでその選手の存在価値がなくなるわけではない。
ある者は代打の切り札として、ある者は守備固めとして、またある者は代走要員として、チームの勝利のために貢献することができる。いつしか、荒木もまた「名バイプレイヤー」としてヤクルトに欠かせない存在となっていた。彼に尋ねたのは「バイプレイヤーとしての矜持」だった。当時、プロ9年目を迎えていた荒木は言った。
「今年でプロ9年目となりますが、全然、順調にきているとは思っていません。何とか少しずつ、少しずつ歩んでここまで来ました。僕の場合は出場試合数がすべてではないし、結果だけがすべてだとは思っていないので……」
「結果がすべて」と言われるプロの世界において、「結果だけがすべてではない」と言い切る点にこそ、「荒木貴裕」という選手の特徴が如実に表れている。
「チームが困ったときに、しっかりと仕事をする。それが僕の大切な役割だと思っています。どこでも守れる、どんな役割でもできる。自分はそういう点をアピールしないと生き残っていけない選手なので……」
このとき、とても印象に残ったのが「シーズン前に目標を聞かれるけど、いつも困っているんです」と、荒木が小さく微笑んだことだった。
「毎年、具体的な数字を聞かれるんですけど、僕には個人的な目標はないんです。不動のレギュラー選手として、年間に140試合も出場する選手だったら、打率やホームラン数の目標を答えることもできるんですけど、僕の場合は試合展開によって、いつも出る場面が変わってくるんで、具体的な目標を決めづらいんです(笑)」
このとき、「バッテリー以外はすべて守った」と荒木は言った。自分が登場するのは、いつ、どんな場面なのか、本人にもわからない。こうした不安定な起用状況の中にあっても、常に万全の態勢で試合に出る準備を整えておく。それが荒木という選手なのだ。