「たまにですが、ふと映像が浮かぶことがあるんです」
石川昂弥はポツリとつぶやいた。
「選抜の前もそうでした。優勝するシーンが見えたんです。だから、僕は高校の壮行会で『優勝します』と言ったんです。本当にそうなりましたね」
今度は笑った。幼い頃から、時々浮かぶ映像はほぼ現実のものとなるらしい。そんな石川昂は3球団競合の末、中日ドラゴンズに入団した。1年目に一軍デビュー。飛躍が期待された2年目は怪我に泣いた。しかし、その陰で多くの初体験を積んでいた。まずは1月の自主トレを初めて他球団の選手と行った。相手は日本の4番、鈴木誠也だ。
「体が凄かったです。大きいのはもちろん、瞬発力とパワーがあって、足も速い。一流の体を知りました。あと、試合でのボールの待ち方や伸び上がって打つ悪い癖の直し方など質問しまくりました。鈴木誠也さんから『スイングはいい。無駄がない』と言われたのは嬉しかったです」
4カ月のブランクの間に肉体改造
大きな収穫と喜びを得て、キャンプに臨んだ。仁村徹二軍監督の「石川には死ぬ寸前までやってもらう」というコメントを記事で見た。「やらないといけない」と覚悟した。去年は怪我で離脱したが、初めて完走した。しかし、3月末、右太もも前を痛めた。
「開幕に間に合わなかったのは悔しかったです。でも、きっちり治して、ここからやってやるぞとすぐに切り替えました」
4月末、二軍の公式戦に4番サードで復帰。その後も試合に出続けた。そして、6月25日。鳴尾浜の阪神戦。第2打席で初めての手応えがあった。
「インハイの真っ直ぐでした。びっくりするほど、バットが綺麗に出たんです」
打球はレフトスタンドへ消えていた。第3打席は2点タイムリー、第4打席はレフト前。もう手が付けられない。しかし、第5打席に悲劇が待っていた。死球が左手首を襲ったのだ。
「正直、当たった瞬間は大丈夫かなと思いました。今までデッドボールを受けても、折れることはなかったので。でも、しばらくして、完全に左手が動かなくなったんです」
左尺骨骨折。人生初の骨折だった。その後、人生初の麻酔を打ち、人生初の手術をした。リハビリは4か月に及んだ。
「小学校2年生から野球を始めて、こんなにバットを振らなかったのは初めてです。でも、この時間をプラスにしようと思いました。怪我が多いので、改めて体のことを勉強しました。ウエイトトレーニングは鍛えたい箇所を伝えて、初めて自分用のメニューを作ってもらいました」
下半身はパワーと瞬発力、さらに横の俊敏性を高めるメニュー。上半身は筋肥大に特化。求めたのは1月に見たあの体だ。98キロから104キロに増量したが、動きはいい。10月、肉体改造した石川昂は宮崎フェニックスリーグに乗り込んだ。
「仁村監督からは『ブランクがあるから、打たなくていい。その代わり、生きたボールをしっかり見ろ』と言われました。僕もそのつもりでしたが、案外ボールが見えたんです」
9試合で27打数7安打6打点。最後の試合となった日本ハム戦の第3打席ではまた新たな感触があった。
「センターへフェン直を打ったんですが、今までなら見逃していた球でした。実は僕、右ピッチャーのストライクのスライダーを簡単に見逃してしまう課題があったんです。でも、あの打席は反応できました。入るかなと思いましたが、届かなかった。まだまだですね」
仁村監督はこの一打を「当てただけじゃないかな。普通の選手ならセンターフライ。それがあそこまで飛ぶんだから、良くなったら、怖いよ。もっと完璧に打てる。打った瞬間にホームランという打球を打てる」と評価した。