中日ドラゴンズ元監督・落合博満の実像を描いたノンフィクション『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』(鈴木忠平)が話題だ。発売からひと月ほどで10万部を突破し、ドラゴンズファン、野球ファンの枠を超えて大きな反響を呼んでいる。『嫌われた監督』の著者の鈴木忠平氏は、日刊スポーツ新聞社でプロ野球担当記者を16年間経験した。鈴木氏が、『嫌われた監督』を書くまでにどのような記者生活、半生を送ってきたのか、なぜ落合博満の言動や采配に魅力を感じるようになったのか、ターニングポイントを語った。(全2回の1回目。後編を読む)

©文藝春秋/釜谷洋史

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サッカー少年がフランスW杯を観戦して記者を目指す

 サッカーを始めたのは小学校3年生の時だった。高校は地元・名古屋の強豪校に入学した。Jリーグが開幕した1993年のことだった。3年生になってキャプテンを任されるようになると、夏のインターハイに出場し卒業後はJリーガーになる、それ以外のことは頭から締め出されていた。

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 見かねた親からは、「夢の道と現実の道、両方を頭に入れておきなさい」と忠告を受けたが、生来が楽天家なのか、「なんとかなるだろう」と高を括っていた。

 結果は、愛知県大会ベスト8。早々の敗退だった。大学でもサッカーは続けたが、東海大学リーグの、それも4部でのことで、Jリーガーになる夢は完全に捨て去っていた。

 大学時代に印象に残っていることのひとつに、98年のフランスW杯がある。日本が初めて出場するワールドカップだ。プロになる夢は諦めていたが、サッカー観戦はやはり好きだった。アルバイトで貯めたお金を全てつぎ込んで、フランスへ飛んだ。

 試合前に現地のスポーツ雑誌の記者にインタビューを受けた。印象的だったのは、私たちサポーターへのごく簡単なインタビュー終えた後、颯爽とスタジアムの中へ消えていった、その後ろ姿だった。ちょうど大学3年生の夏、就職活動が始まる季節だったから、記者という職業が将来の仕事として意識されたのかもしれない。

 就職活動では、片端から新聞社を受けた。フランスで出会った記者のように、次のW杯、2002年の日韓W杯では、自分の目で、生で、試合を観て記事を書くのだ、と意気込んでいた。しかし、2000年に日刊スポーツの名古屋本社に入社して、最初に配属されたのは「地方版」の東海地区担当だった。その中で、最も需要の高いコンテンツは高校野球だった。