中日ドラゴンズ元監督・落合博満の実像を描いたノンフィクション『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』が話題だ。発売からひと月ほどで10万部を突破し、ドラゴンズファン、野球ファンの枠を超えて大きな反響を呼んでいる。『嫌われた監督』の著者の鈴木忠平氏は、日刊スポーツ新聞社でプロ野球担当記者を16年間経験した。鈴木氏が、『嫌われた監督』を書くまでにどのような記者生活、半生を送ってきたのか、なぜ落合博満の言動や采配に魅力を感じるようになったのか、ターニングポイントを語った。(全2回の2回目。前編を読む)

©文藝春秋/釜谷洋史

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自分は新聞記者には向いていない

 阪神優勝の可能性が潰える、その少し前に各社が監督人事について一斉に報じた。私は後輩の努力を無駄にしてしまった。

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 私はすぐに球団幹部の家に急いだ。敗戦処理――後追い記事を書かなければならなかった。

 その車中だった。

 ふと、潮時だな、と思った。自分は新聞記者をやってちゃダメだ、と。

 特オチのことで、会社の仲間に申し訳ないという気持ちは当然あった。しかし、やってちゃダメだと思ったのは、自分のため、という思いが強かったように思う。

 自分にとって面白いのは、球団幹部が、ペナントレース中のこのタイミングで、大阪ではなく新神戸で密会して、監督人事を密談するんだ、とか、密会するホテルでも、エレベーターに乗るタイミングをずらして、我々のような取材陣に用心するんだ、とか、そういうことだった。スクープなどの決定事項ではなく、それに至るプロセスやディテールにこそ、自分は惹かれるのだと自覚した。

 それはつまり、新聞記者には向いていない、ということだった。

 監督問題の後追い取材が片付いてから、部長と面談した。部長は、来年もキャップをやってくれと言ってくれたが、私は辞職を願い出た。

 妻は「やりたいことをやった方がいい」と言ってくれた。その時に妻が教えてくれたのだが、後追い取材に走っている時期の私は、いつも死んだような顔をして家に帰ってきていたのだという。

 16年間お世話になった新聞社を離れ、2016年からNumber編集部で働き始めた。 

©文藝春秋/釜谷洋史

 何がやりたいか、何を書きたいかということは、落合担当をしていた8年間の中でなんとなく分かっていたように思う。

 私は落合さんと時間を共にする中で、彼との会話や出来事をいつしかメモに書き留めるようになっていたのだ。

 なぜ俯いて歩くのか、その理由を語った時のこと。新幹線のグリーン車の切符をもっているのに、発車時刻が迫っていても決して走ろうとはしなかったこと。また、その車中で食べたスジャータのアイスクリームのこと……。