高校生から野球を始め、卒業と同時にプロ入り。3年目に一軍昇格を果たすと、初出場となった試合で本塁打を記録。その後、中日ドラゴンズではホームラン王を獲得し、日本ハムファイターズ移籍後には2000本安打を達成……。

 華々しい記録を残した大島康徳氏は病魔に冒されるなか、何を考え、どのように前向きに生きていたのだろうか。ここでは、同氏が生前に書き記した文章をまとめた『振りきった、生ききった「一発長打の大島くん」の負くっか人生』(東京新聞)の一部を抜粋。星野仙一、落合博満をはじめとした偉大な野球人との知られざるエピソードを紹介する。(全2回の1回目/後編を読む)

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星野仙一さん

 成績が悪ければ、監督は代わります。1986年の中日は5位。翌87年からは星野仙一さんが監督に就任することになりました。星野さんとは入団以来の付き合いです。無類の熱血漢で、とにかく負けるのが大嫌いな人でした。

星野仙一監督 ©文藝春秋

 でもね、一緒に野球をするのは大変でした。圧が強すぎて、プレッシャーで押しつぶされそうになるのです。彦野利勝君なんか、怒られるのが怖くて急性胃潰瘍になって血を吐いたことがあるんですよ。

 僕は守備がへたくそだと思われていたので、余計でした。サードの僕のところに打球が飛ぶと、星野さんから大声が飛ぶんです。「ゆっくりーっ!!」って。

 ゆっくり焦らずに捕球しろという意味なのでしょうが、そんな怒鳴り声を聞くと逆にガチガチになってしまいます。捕球して一塁に投げようとすると、「そう、そう、そう、そう、そぉぉうー!!」。ホント、勘弁してほしかったです。

「何で、割れんのじゃー!!」と、コップに逆ギレ

 湯飲み事件は知ってますか? 星野さんは自分が点を取られると逆ギレし、ベンチに置いてある陶器の湯飲みをガシャーンとたたき割る癖がありました。

 ところがある日、湯飲みがプラスチック製に変わっていたんです。あまりに湯飲みを割るので球場側が気を利かせたのでしょう。

 例によって打たれた星野さんが、「このやろう」と怒ってたたきつけたのですが、プラスチックなのでカランカランと転がるだけ。シーンとしているベンチにコップの転がる音が響きました。