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 また、バット選びの視点も独特でした。僕を含め、すーっと縦にきれいな木目が入っているバットを選ぶ人がほとんどなのですが、落合君は違いました。わざとバラバラの木目を選ぶのです。

 バラバラでふぞろいだと木目が詰まっていて、バットが堅いんだそうです。そこまで考えて野球をやっている人間は初めてでした。その後の彼の活躍はこのときに確信できました。

いきなり外さず、チャンスを与えるのが星野流

 星野仙一さんが監督になって、チームがピリッと引き締まりました。1986年の秋季キャンプでは若手ベテラン関係なく、猛練習が課せられました。

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「現役時代に練習しなかった人ほど、指導者になると練習させる」。野球界にはそんな格言があるのですが、星野さんもそうでした。あの人自身は秋のキャンプなんて行ったことないはずなのに、僕には来いというのです。

 行きましたよ。「バットもグラブもいらない」と言われ、延々と走るだけ。まるで陸上部のようでした。それでも、僕は星野さんを男にしたい。胴上げしたい。そんな気持ちで頑張りました。

 ですが、その気持ちが強すぎたんですね。結果を残そう、自分がチームを引っ張ろうと思えば思うほど、空回り。開幕しても調子は上がりませんでした。

 このとき、星野さんの頭の中にはチーム構想があり、そこに僕は入っていないようでした。しかし、いきなり外さないのが星野流。チャンスを与えるのです。

大島康徳氏 ©文藝春秋

 僕の場合も開幕は三番で起用してくれました。100打席くらいはスタメンで使おうと思ってくれたようで、最初は黙って使い続けてくれました。しかし、僕は結果を出せず、次第に出場機会が減っていきました。

トレード通告

 それでも、心の中で応援をしてくれていたようでした。7月8日、金沢で行われた阪神戦でのこと。1-2で迎えた7回に僕が代打逆転2ランを放ったのですが、その後、郭源治君が打たれて負けてしまったことがありました。

 そうしたら、試合後のミーティングで星野さんが投手陣に激怒したんです。

「おまえら、絶不調のベテラン大島が打ったんだぞ。価値ある一打をふいにしやがって!」。このときは涙が出るほど、うれしく思いました。