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 地道な取材ばかりの日々で、当初、自分が思い描いていた記者像からは遠く離れたところにいた。いま思えば、会社とはそういうものなのだが、なんの実績もない新人記者の願いが聞き届けられるはずもなく、2年後にW杯を現地で取材するどころか、サッカー担当になることすら、全くもって現実的なものとは言えなかった。

原稿は赤字続き「お前、そのうち記者でいられなくなるぞ」

 それどころか、現実には、記者であり続けることすら、危うい状況にあった。

 私は書く原稿、書く原稿で赤字を出し続けていたのだ。事実関係の誤植は、紙面の信頼性に関わるため、デスクからは「お前、そのうち記者でいられなくなるぞ」と𠮟られ続けた。

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 名門校の監督の名前を間違って、デスクや先輩記者が謝りに行ったことすらあった。出場選手や監督の名前は、メンバー表をもらうので、私の単純な書き写しミスだった。

 2003年になって、中日ドラゴンズ担当になることを告げられた。プロ野球担当は、スポーツ紙の花形だが、もちろん“見込まれて”の異動ではない。デスクは「取材するメンツは毎年ほとんど変わらないんだ。さすがのお前でも赤字を出すことはないだろ」と溜め息交じりに言われた。

 それからほどなくして、私は初めての“特オチ”を経験することになる。

 ある朝、デスクから電話がかかってきた。

 当時の監督だった山田久志さんが解任されたという。しかもそのニュースは他社のスクープではなく、複数の競合紙が報じるなかで、自分たちが遅れをとった“特オチ”だった。

 デスクに叱られながらそれでも、ただ使い走りの番記者だった私はそれを全く他人事のように受け止めていた。私はデスクからの電話を受けるまで、自宅で暢気に寝ていたくらいだった。

 落合との8年間を過ごす前、私はそういう記者だった。

©文藝春秋/釜谷洋史

落ちこぼれ記者が阪神タイガース担当キャップへ

 中日担当での落合番を経て、阪神担当になったのは2012年だ。花形のプロ野球担当のなかでも巨人と阪神はツートップで、番記者は6人もいた。

 中日担当への配置換えは“見込まれない”形でのものだったが、この時はサブ・キャップとしての異動だった。

 落合体制下の中日では、選手の故障情報が機密扱いとなるなど、厳しい情報統制が敷かれた。そういう状況では、記者クラブが機能し得なかったので、落合さんへの取材はひとりで立ち向かわなければならなかった。そうして得た情報は逆に、自分の独自ネタとなり、落合さんの記事を書くことでいつしか私は「忠平に任せていれば大丈夫だ」と言われるようになっていたのだ。

©文藝春秋

 阪神担当になって4年目、2015年にはキャップになった。

 落ちこぼれの烙印を押されていた記者が、阪神タイガース担当キャップになったわけだから、スポーツ紙の記者としては名誉なことではある。社内からそういう評価を得たことは素直に嬉しかった。