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「チアドラは私の人生そのもの!」夢を諦めなかった元チアドラゴンズリーダーの物語

文春野球コラム ペナントレース2021

2021/11/08

 文春野球を読んでいる皆さま、はじめまして! 元チアドラゴンズリーダーでタレントの三浦志麻です。現在は東海ラジオ「大澤広樹のドラゴンズステーション」などに出演しています。

 チアドラゴンズのメンバーとしては2017年から2019年まで活動し、そのうち2年間はリーダーを務めました。現在、一部のドラゴンズファンの方には、試合に勝った瞬間、誰よりも早く「どらほー!」とツイートする人としても知られているとかいないとか(笑)。

 推しはずっと京田陽太選手です! 今年は調子の悪いときもありましたが、2軍から復帰したときは、より頼もしく感じましたね。同い年の京田選手がドラゴンズに入団したのも、私がチアドラに入ったのも同じ2017年。勝手に“同期入団”と呼んでいます。2017シーズン終わりにファンの方から「しまちゃんはチアドラの新人王だね」と言われたことをきっかけに、より親近感を覚えて応援するようになりました。

 今回は私が「人生を賭けた」と言っても過言ではない、チアドラになるまでの道のりについて書きたいと思います。いつも皆さんの前ではキラキラした笑顔でパフォーマンスしているチアドラですが、実はこんな泥臭いストーリーもあることをぜひ知ってもらえたらと思います。最後までお付き合いください!

筆者・三浦志麻

チアドラ初挑戦は涙の不合格

 まさかと思って何度も何度も番号を確かめました。でも、やっぱり私の受験番号は呼ばれていませんでした。

 ナゴヤドーム(現バンテリンドーム ナゴヤ)のフレックスルームに、一次の書類審査を通った70名ほどの受験者がつめかけています。高校3年生になって受験資格を満たした私は、チアドラゴンズ2013のオーディションに臨んでいました。

 二次審査には基礎審査、ダンス審査、面接がありますが、結果は不合格。しかも最初の「基礎審査」で落ちてしまったのです。11年間、新体操をやってきた私にとっては、基本中の基本の動きだったはずなのに。母に電話で報告し、1月の冷たい風に吹かれながらナゴヤドーム矢田駅までの連絡通路を歩く間、涙が止まらなかったことをよく覚えています。

 私がチアドラを目指し始めたのは、15歳のときのことです。

 愛知県豊田市生まれの私は、自他ともに認めるサッカー一家で育ちました。ドラゴンズは応援していたものの、熱烈なファンというわけではありませんでした。それでも試合に出ている選手の名前はほぼ知っていたので、やっぱり落合監督時代の強いドラゴンズってすごかったと思います。

 15歳で新体操を引退した頃、母が近所にできた「チアドラゴンズダンスレッスン(チアドラキッズ)」の豊田教室を教えてくれました。軽い気持ちで通い始めた私でしたが、講師のチアドラOG小島陽子先生から熱心な指導を受けるうちに「チアドラになりたい!」という思いが膨らんでいきます。なによりドラゴンズの試合中継や優勝パレードなどで見たチアドラの“キラキラしたお姉さん”感に、とても憧れていました。

 しかし、初めてのオーディションは不合格。今思えば、ビジュアル面でもまだ人前に立つレベルではなかったのでしょう。私のほかにも泣きながら帰り道につく人が何人もいました。チアドラへの道は、私の想像以上にとても険しいものだったのです。