(あんどうゆうこ ジャーナリスト。1958年、千葉県生まれ。上智大学在学中より数々の報道番組のキャスターやリポーターとして活躍。2015年からはフジテレビ系「直撃LIVE グッディ!」総合司会を務めた。現在はメディア出演や講演活動のほか、2023年より椙山女学園大学の客員教授に。)

 

「モデルルームみたい」と言われるほど、ひとり暮らしの部屋では完璧な自分の世界を構築していました。それは、手を伸ばせば醤油差しが置いてあるような“昭和感”満載だった実家からの反動だったと思います。私の家に対するこだわりは、「家」そのものというより、「ライフスタイル」へのこだわりでした。

 大学在学中にデビューし、男社会だった報道の世界で“現場主義の女性キャスター”として道を切り拓いてきたジャーナリストの安藤優子さん。1958年、千葉県市川市で3人きょうだいの末っ子として生まれた。

 私が“おじいちゃま”と呼んでいた父方の祖父が太平洋戦争中、父とその兄を連れ、東京の日本橋浜町から千葉県市川市に疎開したんです。その時、隣に住んでいたのが母の家族で、それが縁となって父と母が結婚しました。母曰く、本当は父の兄が好きだったそうですが、お兄さんは戦死。弟である父も予科練で空襲に遭い、弾が踵を貫通する大怪我を負いました。その怪我がなければ、父も特攻に行き、私もこの世にいなかったかもしれません。改めて、戦争の影響を色濃く引きずっている世代だと感じます。

 祖父はカステラの箱などを作る「日本木箱」という会社を経営していたのですが、戦後、アメリカ軍に接収された際には、朝鮮戦争のために弾薬を詰める箱を作ったそうです。私が物心つく頃には日本木箱は廃業、化粧品などを小売に卸す仲介業を始めていました。父はその二代目です。

 私が生まれたのは、総武線本八幡駅のそばにあったおじいちゃまの家の敷地内のアパート。父と母の住まいとしてそのアパートの裏に一軒家を建築中で、一時的に間借りしていたんです。すぐ後、完成した一軒家に引っ越して、小学校3年まで暮らしました。商売をしていたので人の出入りが多く、母の実家が近かったことでいとこもたくさん来る賑やかな家でした。末っ子の私は社交的というより、お調子者。庭に置かれたブランコに皆で乗って、バスガイドごっこをしていました。

カルチャーショックの連続だった米留学。パルコでのバイト中に声をかけられ…

 100平米はあった2階建ての家の間取りは4LDK。1階にリビングダイニングと父の書斎、主寝室があり、2階に9歳上の姉と4歳上の兄の部屋。姉と兄だけ人格が認められていたので、この家に私の部屋はありませんでした(笑)。

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source : 週刊文春 2025年1月16日号