「関ヶ原」がなぜ起きたか。どこで勝敗が決したのか。その問いにこたえるためには、「秀吉政権とは何だったのか」をきちんと把握する必要があります。前回は、「家」に着目して、秀吉政権が抱えていた不安定さに迫ってみました。今回は、秀吉の最大の長所でもあり、逆に弱点にもなったもの、すなわち「スピード」「成長」に着目したいと思います。
天下取りを可能にしたもの
天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で信長が命を落とした時点では、秀吉はまだ織田家家臣の中で、二番手ないしは三番手といった存在でした。軍団長に任じられたなかでトップは柴田勝家として、明智光秀、滝川一益、丹羽長秀と熾烈な生き残り競争を繰り広げていました。このうち、秀吉、光秀、一益と3人までが出自明らかならぬ人物であるところに、織田信長のただならなさが漂っています。
本能寺の変から、天正18(1590)年の小田原征伐までわずか8年です。翌年の奥州再仕置を入れても、秀吉はたった9年の間に天下を統一してしまったのです。これがどれほど高速の天下取りだったかは、信長と比較するとよくわかります。
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source : 週刊文春 2025年9月18日号






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