三成らのクーデターを受けて行われた「小山評定」。会津征伐軍は上方へとついに引き返す。

 

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 ここまで慶長5(1600)年7月12日のクーデターから、17日の「内府ちがいの条々」、19日からの伏見城攻めに至る豊臣方の動きと戦略をみてきました。

 これに対して、家康はどのように対応したのでしょうか。

 時は少しさかのぼって、7月2日、家康は会津征伐軍の総指揮官として江戸城に着き、7日には諸武将に対し15か条の軍令を発するなど、着々と戦争準備を進めていました。

 そして13日には徳川四天王のひとり(さかき)(ばら)康政(やすまさ)が、19日には嫡男の徳川(とくがわ)秀忠(ひでただ)が先発隊として江戸を発ちます。20日には上方から征伐軍に加わった諸将たちが宇都宮に集まってきました。

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source : 週刊文春 2025年12月11日号