「天下分け目の関ヶ原」の言葉通り、慶長5(1600)年9月15日の関ヶ原の合戦は、1日のうちに天下の帰趨を決した、日本史上でも稀な決戦となりました。そのために「徳川家康と石田三成が雌雄を決するべく、はじめから決戦の地、関ヶ原を目指して、東西から軍を進めた」というイメージを持っている人も少なくないかと思われます。何を隠そう、幼少期から偉人伝、歴史小説を読み漁っていた本郷和人少年もその一人でした。
しかし、史実はそうではありません。
繰り返しになりますが、三成が目指していたのは、尾張と三河の間で防衛ラインを敷き、先進地域であった日本の西半分を「面」として防衛し、家康を締め出すことでした。短期決戦で徳川軍を殲滅させようと考えていたのではなく、長期持久の防衛戦だったのです。
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source : 週刊文春 2025年12月25日号






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