慶長7(1602)年12月、島津忠恒が薩摩から上洛、伏見城で徳川家康に謁見し、4月に下された本領安堵の礼を述べました。同年5月には、水戸に籠っていた佐竹義宣も上洛し、関ヶ原の戦後処理が一段落します。家康は、この領地配分を1人で決めることで、あらたな武家政権を発足させたといえます。
では、家康による「新しい天下」は、それまでの政権のありかたと、どのように違ったのでしょうか。私は、大きく2つのポイントが挙げられると考えています。
250万石は与えすぎ
ひとつは、「自前のパワー」に立脚した政権であること、そしてもうひとつは、家を基礎単位とした持続性の高い政権を目指したことです。
豊臣秀吉は、戦った相手とのあいだに「同盟的臣従」を結び、彼らに一定の領地と権限を認めつつ、自分の手駒として戦力化していきました(第2話)。
それによってスピーディーな天下統一を果たしたのですが、その一方で、秀吉による大量動員は、家康をはじめとする「同盟的臣従者」へのアウトソーシングに支えられており、豊臣家直属の軍事力は必ずしも十分とはいえませんでした。豊臣220万石に対して、徳川250万石はやはり与えすぎでしょう。家康が本気で叛旗を翻したら、秀吉といえども、潰すのは容易ではなかったはずです。
有料会員になると、
全ての記事が読み放題
キャンペーン終了まで
-
月額プラン
1カ月更新
2,200円/月
初回登録は初月300円
-
年額プラン
22,000円一括払い・1年更新
1,833円/月
-
3年プラン
59,400円一括払い、3年更新
1,650円/月
既に有料会員の方はログインして続きを読む
※オンライン書店「Fujisan.co.jp」限定で「電子版+雑誌プラン」がございます。ご希望の方はこちらからお申し込みください。
source : 週刊文春 2026年2月12日号






お気に入り記事