これは事実に基づいた物語である。
入手できた記録、証拠、証言などを典拠としているが、一部想像で補っている箇所もある。
また、存命中の関係者への配慮から、登場する人物名はすべて仮名である。団体名その他の固有名詞も、一部実際とは変えてある。
第1部
1
新千年紀最初の年――2001年8月半ばの早朝に、日下耀は生まれた。
父の名は秀一、母は亜弓、2歳上に長女の紗香がいる。紗香も彼も、戸籍上は嫡出子である。
彼の出生当時、一家は世田谷区代沢某所にある低層マンションで暮らしていた。間取りは3LDKで中古だったが、購入価格は億を超えていた。
父親の秀一はアメリカに本社があるコンサルタント会社の東京支社で働き、日本の会社員の平均給与額を大きく上回る年収があった。
加えて秀一の実家は渋谷駅から徒歩圏で小規模ながらも貸しビル業を営み、手を広げすぎていないがゆえに安定した収入があった。マンション購入の際はこの実家から援助も受け、日下一家が金銭的に苦労した影は見当たらない。
一方母親の亜弓は、自宅から徒歩5分ほどの場所にある、いわゆる“セレブ向け”の生花や雑貨を扱うフラワーショップで働いていた。生活費の足しにするためではなく、趣味、さらに言うなら「息抜き」のためだったと思われる。耀を出産する前後はショップの仕事を休んだが、彼が1歳半になったのを機に保育園に預けて復帰した。
亜弓はあまり人づきあいが多いほうではなく、同じマンションや幼稚園の「ママ友」に親しい友人と呼べる存在はなかった。すくなくとも、子育てや仕事、少し大げさにいうならライフスタイルに関する亜弓の考えや悩みを聞いた人物はいない。
秀一の仕事は激務だったが、休日は極力家族と一緒に過ごすように心がけていた。
幸福の度合いを数値化、客観化することは難しいが、少なくとも傍から見れば、うらやむような、やっかむような、つまり「絵にかいたような」という形容が似合う幸せな一家だった。あの瞬間までは――。
春の嵐という言葉があるが、耀が3歳の3月、それまで鏡面のように凪いでいた海が、突如大時化となるようなできごとが起きた。
すでに姉の紗香は、選考が厳しいことで有名な一貫校の幼稚園に通っていたが、耀も同じ幼稚園を受験し合格した。
入園するにあたって、耀の特技や性向などを記した身上書の提出に加え、指定医院での簡単な健康診断を求められた。アレルギー、疾患の有無、血液型などだ。健康管理上の理由だろう。
亜弓は揃えたこれらの書類を所定の封筒に入れ、サイドボードの上に置いた。すぐに封をしなかった意図はわからない。明朝、最後にもういちど中身を確認するつもりだったのかもしれない。単にほかのことに気を取られて忘れていただけかもしれない。
悲劇は得てして本人の気づかぬうちに気づかぬ場所で始まっているものだ。人生には再現性がない。やり直しはきかない。起きたことがすべてだ。
もしもこのとき、亜弓がさっさと投函していたら、あるいはせめて書類が揃った時点で封筒の口を糊付けしていたら――。
耀を含めた日下一家だけでなく、その後彼がかかわることになる複数の人間の運命――生死を含めて――が大きく変わっていたかもしれない。
とにかくその夜、仕事を終えて遅くに帰宅した秀一は、いつもそうするようにシャワーの前にまず冷えたビール缶のタブを押し下げた。吹き出す泡を吸い込みながら、リビングのソファに腰を落とした。
ふと時刻を確認しようと、サイドボードの上に載っている電波式のデジタル時計に目を向けた。
曲がっている――。
このソファセットに座ったときにちょうど正面を向くように置いてあるはずなのだが、少し斜めにずれてキッチンのほうを向いている。
時刻は読み取れたが、秀一はこの傾きが気になる性格だった。ビール缶をテーブルに置き、向きを直そうと立ち上がってサイドボードに歩み寄った。
時計の向きが変わってしまった理由がわかった。その下に封筒が置いてある。紛失しないよう、時計を重し代わりにしたのだろう。

秀一は、その封筒に覚えのある幼稚園の名を見つけて、手に取った。そして中の書類を抜き出してみた。特に何かの疑念を抱いたわけではなかった。あえていえば、書類用の封筒を手にした会社員の習性のようなものだ。
まずは身上書があった。亜弓の丁寧な字で無難な内容が記されている。耀はたしかシイタケが大嫌いなはずだったが、《好き嫌い》の欄は《無し》となっている。受験は終わったのだから正直に書いたほうがよいとアドバイスしようか、そんなことを考えながら、2枚目の医院が発行した健康診断書を見た。ハウスダストに若干のアレルギー反応がある以外、これという病気は見つからなかったようだ。
ひとまず満足してもとどおり封筒にしまいかけ、ある項目に目が留まった。
《血液型:AB型》
「うん?」
思わず声が漏れた。秀一も亜弓も、そして長女の紗香もA型だ。2人ともA型の両親からは、AB型の子は生まれないはずだ。
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source : 週刊文春 2026年7月9日号






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